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元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【後編】

元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【後編】:2ページ目

暗殺・テロの時代へ

1928年6月4日に、後の満州事変へとつながっていく遠因になった張作霖爆殺事件が発生しました。事件直後から、西園寺は事件の犯人は関東軍であることに気付いており、当時の田中義一首相に犯人処罰を勧告しています。

しかし関係者は田中に責任を取らせることを考えており、西園寺はそれに反対しましたが、田中は昭和天皇の不興を買って、最終的には事件の責任を負う形で辞任。これが、昭和天皇の権威が軽視されて、陸軍が暴走していくきっかけにもなりました。

1932年5月15日、青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相が射殺される五・一五事件が発生しました。この事件により政党政治は大きな衝撃を受け、陸軍が実権を握る国粋主義的な動きが活発になり、西園寺もそうした動きを無視できなくなります。

この頃から、日本は要人暗殺が頻発するテロの時代に突入。西園寺も何度も命を狙われ、1932年の血盟団事件ではターゲットの一人にされており、1934年と1935年にも暗殺を画策する者が検挙されました。

その後、満州事変や日中戦争を経て、日本の内政は混乱に陥ります。そんな中で、西園寺は1937年に陸軍の横暴を押さえるべく宇垣一成を首相に推奏したものの、陸軍統制派の妨害によって失敗します。

この時期、西園寺が首相候補の「切り札」としていたのが近衛文麿でした。しかし実際に首相になった近衛は陸軍の言いなりで、日中戦争の泥沼へと足を踏み入れる結果になります。

それからも政権が次々に後退する中で、第二次近衛内閣の推薦について同意を求められたもののこれを拒絶。反対し続けてきた日独伊三国同盟の成立時には「馬鹿げたこと」と嘆き、いわゆる大東亜戦争が勃発するほぼ一年前の1940年11月に没しています。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年

 

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