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徳川三代に仕えた譜代の勇士・大久保忠教(彦左衛門)かく語りき【どうする家康】:2ページ目
旗は確かに立っていた!家康相手に一歩も譲らず
さて、歴戦の勇士として徳川家中に知られるようになった彦左衛門。
しかしその待遇は決して手厚いものとは言えず、所領は忠隣から授かった二千石ばかり。それさえ慶長19年(1614年)に忠隣が失脚すると没収されてしまいました。
(忠隣の失脚には本多正信が関与していると見た彦左衛門は、正信を蛇蝎の如く嫌ったと言います)
ただし家康も見るに見かねたのか、徳川家の直参として三河国額田郡に一千石を与えます。
かつて徳川家中において一、二を争う譜代であった大久保家の「冬」にもめげず、彦左衛門は忠義を尽くしたのでした。
やがて慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には槍奉行として従軍。かつて栄華を誇った豊臣家の滅亡を見届けることになります。
さて、大戦の後で少し悶着がありました。何でも徳川陣中において旗奉行が戦線離脱したと言うのです。
「旗奉行を厳罰に処すべし!」
口々に批判の声を上げる者たちに、彦左衛門は言いました。
「かたがたは何を仰せか。旗は立っておりましたぞ」
実は戦場において家康が逃げ出し、旗奉行はそれを見失ってしまったのです。だから家康は自分の失態を旗奉行に押しつけた……もちろん、主君を見失った旗奉行も、十分過ぎる失態ですが。
この発言がもとで彦左衛門は家康から直々に呼び出されて叱られます。それでも意見を曲げなかったと言いますから、実に三河武士らしい頑固ぶりです。
その場で反論こそしなかったものの、彦左衛門の言い分はこうでした。
「今回の不始末を、旗奉行のせいにするのは簡単だ。しかしそれは、主君の居場所も分からなくなってしまうような愚か者を旗奉行に任命した大御所(家康)様の恥でもある。だからわしはあえて、旗は立っていたと言い張ったのだ」
三河の小豪族から始まって、あれよあれよと天下人……徳川家が大きくなっていく中で、譜代の忠臣は忘れ去られ、名前も覚えていないような者が旗奉行を勤める始末。
やれ天下人と言うが、あなたに天下を獲らせたのは、我ら三河武士ではなかったのか……彦左衛門の毅然たる態度に胸打たれた家康は、この件を不問に処したということです。
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