手洗いをしっかりしよう!Japaaan

秀吉も賞賛!於義伊あらため羽柴秀康16歳の無礼討ちエピソード【どうする家康】

秀吉も賞賛!於義伊あらため羽柴秀康16歳の無礼討ちエピソード【どうする家康】

小牧・長久手の合戦における和睦の条件として、羽柴秀吉(はしば ひでよし。豊臣秀吉)の元へ養子に出された於義伊(おぎい。徳川家康次男)。

実質的には人質ですが、養子を迎えた秀吉は於義伊を大歓迎、秀の字を与えて羽柴秀康(ひでやす)と改名させました。

そんな秀康はまだ11歳(天正2・1574年生)。まだ幼くも父・徳川家康(とくがわ いえやす)譲りの英雄気質を存分に受け継いでいたようです。

今回はそんな羽柴秀康の武勇伝を紹介。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、描かれるでしょうか?

挑発する家臣を無礼討ち

……十五年の春、参河守殿御年十四歳、関白殿と共に、筑紫に渡り、一方の大将にて、日向国を平け、十六歳の御時、伏見の馬場に出で馬めされしに、殿下の御厩の預り、守殿と争ひて馬を馳せ、頗る無礼に及びければ、馳違ひさまに、御刀を抜て、首を中に打落し給へば、爰に有合ふ関白の御家人等、狼藉出来ぬとひしめく、守殿馬かけすゑ、はたと睨らまへ、やあ如何に殿下の御家人たらんものが、秀康と争て、馬はせ、且は無礼をいたすべきやうやはある、あしうふるまつて、かたがたも過ちし、秀康怨むなと仰せければ、恐れて近づくものあらず……

※『藩翰譜』第一 越前

於義伊あらため秀康は、14歳となった天正15年(1587年)の春に初陣。養父・秀吉と共に筑紫(九州)へ渡り、一方の大将として日向国(宮崎県)を平定しました。もちろん補佐は十分ついていますが、幸先のよい武将人生の幕開けです。

こうして自信をつけた天正17年(1589年)。ある日16歳の秀康は、伏見の馬場で馬術の稽古に勤しんでいました。

「おい、あれが徳川からの人質だぜ」

「悪くない腕前だが、まだまだヒヨっ子だな」

「よし、ちょっとからかってやるか」

厩(うまや。馬小屋)の番をしていた秀吉の家臣たちがそんな陰口を叩いたかどうか。その内、ある一人ナニガシが馬を乗り出して、秀康の馬にぴったり寄せます。

「三河守(秀康)殿。今日も精が出ますなぁ」

「……うむ」

底意地の悪さを感じながら、秀康は答えました。

「それがし如きが御指南とはおこがましくも、此度は馬技など一つご披露仕(つかまつ)る」

言うなりナニガシは曲乗りを始め、これは出来るか、これはどうかと得意顔です。これは自分を侮辱する意図が明らか。秀康は決意しました。

(斬る!)

そして馬を馳せ違いざま、抜き打ちにナニガシの首を叩き落としたのです。

「小童め、やりおった!」

「三河守殿、ご乱心!」

口々に騒ぎ出した家臣どもを睨みつけ、秀康は一喝しました。

「関白殿下のご家来衆ともあろう方々が、なぜ殿下の子たるわしに無礼を働くのか!」

あまりの気魄に、家臣たちは立ちすくみます。

「そなたらは、わしが養子だから、徳川からの人質だからと侮っておるのだろう。しかし、畏れ多くも関白殿下がわしを『我が子』とお認めになった以上、誰が何と言おうがわしは関白殿下の子なのだ。もしそれを否むるならば、すなわち関白殿下に対する不忠義と心得よ!」

こう言われては返す言葉もなく、家臣たちは一同ひれ伏したと言うことです。

2ページ目 あっぱれ秀康!秀吉の賞賛

 

RELATED 関連する記事