手洗いをしっかりしよう!Japaaan

武田の血筋は現代まで…戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子ども

武田の血筋は現代まで…戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子ども

@
2023/07/10

天正10年(1582)の天目山の戦いで滅亡してしまった甲斐武田家。しかし、武田の名跡は滅んでおらず、後世まで血を残した信玄の子どももいました。

今回は戦国時代を生き延びて武田の血を残した2人の信玄の子どもをご紹介します。

盲目の僧侶・海野信親

最初に紹介するのは信玄の次男・海野信親(うんの-のぶちか)です。

信親は生まれつき盲目(※近年では幼少期に失明した説も有り)で、永禄4年(1561)に海野幸義の娘に嫁ぎ、海野氏を継いだ後に出家。一向宗の僧である長延寺実了の弟子となり、竜芳と名を改めました

信親は盲目だったために表舞台に出られず、永禄8年(1565)に兄の武田義信が謀反の疑いで処刑される義信事件後の武田家は、信玄四男の勝頼が継ぎました。ちなみに、信玄三男にあたる信之は、天文22年(1553年)に早世しています。

信親死後は高家として生きていく

甲州征伐の際、信親は甲斐国の入明寺に匿われていましたが、勝頼自害の知らせを聞くと同寺で自害しました

信親死後、穴山信君の娘との間に儲けた信道は父と同じく出家し、隠れ住んだことで織田の残党狩りから逃れました。その後は徳川家康と接触し、武田遺臣でありながら徳川家臣となった大久保長安の庇護を受けます

しかし、大久保長安事件で配流されてしまいます。時を経て許された後、信道の孫にあたる信興が徳川綱吉に謁見した元禄14年(1701年)に高家として認められました。以後、信親から始まる武田家は「高家武田家」として現代まで残りました。

2ページ目 安田の名を継いだ武田信清

 

RELATED 関連する記事