知ってる?瀬名と家康に仕えた超マイナー武士・竹尾元成とその一族【どうする家康】:2ページ目
家康の親衛隊となった竹尾清正
●清正 傳九郎 母は吉次が女。
天正十七年より仕へたてまつり、のち大番をつとむ。寛永二年十二月十一日高座郡の内にをいて二百十石餘を宛行はるゝの御朱印をたまひ、十年二月七日二百石を加へらる。正保四年十一月五日二條城の守衛にありて死す。葬地元成におなじ。
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百九十一 清和源氏(支流)竹尾
せっかくなので、息子の竹尾清正についても紹介しましょう。
竹尾清正も通称は傳九郎(襲名したのですね)、天正17年(1589年)から家康に仕え、大番を務めています。
大番とはざっくり言うと徳川家の親衛隊で、譜代や良家の子弟が多く任じられました。
特に目覚ましい槍働きなどはなかったようですが、忠義を尽くした結果、寛永2年(1625年)に高座郡領内に210余石の知行を授かります。
寛永10年(1633年)には更に200石を加増されました。何の手柄によるものか、興味深いですね。
そして正保4年(1647年)に京都・二条城を警備する任務中に亡くなったそうです。
没年は不詳ながら、初めての出仕から58年が経過しており、そこに生まれてからの10~15歳を加えれば70歳前後と推定されます。
そんな高齢になってまで働かねばならなかったのか、あるいは任務に誇りを感じて生涯現役を貫いたのか、どっちでしょうね。