実際には不仲だった!徳川家康と瀬名姫の意外な夫婦仲と悲運な結末【どうする家康】:2ページ目
築山殿の由来
岡崎へ戻った瀬名姫は、家康と共に岡崎城で住んだのではなく、岡崎城近くの屋敷に住まわされました。屋敷のあった地名が築山であったことから瀬名姫は築山殿と呼ばれるようになります。
瀬名姫は築山で半ば幽閉のような生活を強いられていくのですが、このようになった背景には家康の母である於大の方が絡んでいたという説があります。それは自身の子を人質にした今川家を憎んでおり、今川の血を引く瀬名姫を疎んでいたということでした。
ここまでくると夫婦仲は修復不可能なところまで来ていることがわかりますね。ちなみに、『どうする家康』に置き換えると、7話「わしの家」の時点で瀬名姫と別居していることになります。
信康を心配したが故に起きた嫁姑問題
永禄10年(1567)、瀬名姫と家康の子である松平信康が9歳で結婚。相手は織田信長の長女で同じく9歳の徳姫でした。そして、家康が浜松城への移動に際し、瀬名姫は信康が城主となった岡崎城へ移動しました。
信康と徳姫との仲は良好で、天正4年(1576)には登久姫を、天正5年(1577)には熊姫と2人の女の子に恵まれます。しかし、男児が生まれないことを指摘した瀬名姫は元武田家臣で現徳川家臣の娘を信康の側室に迎え入れました。
これをきっかけに徳姫は瀬名姫と信康と不仲になっていきます。そして、天正7年(1579)に、徳姫は父の信長に12か条の訴状を送りました。
内容は瀬名姫が武田家と内通していることや徳姫に関する悪口を信康に言ったことや徳姫と信康が不仲だったことなど。この告発によって瀬名姫と信康の命が危うくなってしまいました。