女官と密通、大人数での乱行騒ぎで天皇をブチ切れさせた公家・猪熊教利がどうしようもなさすぎる…:2ページ目
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公家たちの危ないパーティー
猪熊は同じくかぶき者だった花山院忠長(かさんのいんただなが)が、後陽成天皇のお手付き新大佐(しんのおおすけ)と逢瀬を重ねていることを知ります。
この輪を広げるため、猪熊は遊び仲間を誘ってお手付きの女官たちと遊ぶことに。さまざまな場所で乱交を繰り返しました。公家と女官は合計14人だったそうです。
これを知った天皇は大激怒
大人数の乱交騒ぎですから、天皇の耳に入らないことがありません。このことを知った後陽成天皇は大激怒。全員に死罪をと命じますが、京都所司代の調査の結果、さらに大人数が関わっていることがわかり、社会の混乱を避けるため全員の死罪は避けることに。
猪熊ともうひとり兼康備後は死罪となりましたが、ほかは配流や恩免となりました。
公家への規制を強める江戸幕府
スキャンダラスな猪熊事件は、その後にも大きな影響を与えました。公家の乱れっぷりが世に知られただけでなく、江戸幕府はこの事件を良いきっかけと捉え、公家支配に乗り出します。
慶長18年(1613年)には「公家衆法度」を制定し、2年後の慶長20年(1615年)には、有名な「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の制定も行います。禁中とは朝廷・天皇などを指し、幕府が朝廷と公家を規制できるようになりました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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