覚えてますか?源頼朝に所領を没収された馬面(うまづら)中原知親の意外な一面【鎌倉殿の13人】:2ページ目
意外に文武両道だった中原知親
中原知親は生年不詳、親戚と言われる山木兼隆との関係も不明です。
元は朝廷に仕えて久安2年(1146年)に文章生(もんじょうしょう。紀伝道の専攻学生)から右少史(うしょうし。史は「ふひと」で書記官)となりました。
生まれつき顔が長かったため、人からは「面長進士(おもながしんし)」と呼ばれたとか。大河ドラマで「顔が長い」と設定されていたのは、ここに由来します。
気を取り直して?久安3年(1147年)に左少史、右大史と順調に昇進。同年12月には従五位下に叙爵した知親。
その才能は文官としてのみならず、仁平2年(1152年)には右兵衛少尉、保元2年(1157年)には左衛門少尉に。文武を兼ね備えた人物だったようです。
学者として名を高めた知親は多くの弟子に薫陶を与え、また文筆能力を評価されて摂政家の文殿(ふどの。公文所、政所)にも仕えました。
やがて親戚である山木兼隆との伝手か伊豆国へ移住して蒲屋御厨の目代を務めますが、治承4年(1180年)8月に頼朝が挙兵すると所領を奪われてしまいます。
仕方なく京都へ舞い戻った知親は後白河法皇(演:西田敏行)に仕えますが、寿永2年(1183年)に上洛してきた木曽義仲(演:青木崇高)によって解官(げかん。免職)されてしまいました。
これ以降、知親の姿は史料から見えなくなります。特に記録がないことから、義仲が都を追われた後も、政界への復帰は果たせなかったのでしょう。
大河ドラマの都合で仕方ないのかも知れませんが、決してただ暴虐な領主だけではない、意外な一面も見せてほしかったですね。