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【現地へ行ってみた】鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の落馬の地とされている地域はどんなところなのか?

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落馬の地より少し歩くと集落がありました。「辻堂村」です。

村の中心である鎌倉道との十字路にある寺は海龍山観音院宝泉寺(神奈川県藤沢市辻堂元町3)。

寺伝によると、創建は建久年間(1190~1199)とされ、源頼朝の勧請によるものといいます。 正観音を本尊とし、地元では「南の寺」として親しまれています。かつてこの寺は「四ッ辻のお堂」「辻御堂」と呼ばれており、それが転じて「辻堂」となり、現在の「辻堂」という地名の由来となりました。

村の東西南北には道祖神が祀られており、現在でも大事に扱われています。

 

 

 

 

辻堂村には、鎌倉道、藤沢道、大山道、東海道、京・鎌倉往還などの古道が残り、現在も生活道として使われている場所が多くあります。

鎌倉時代、辻堂および茅ヶ崎を含む地域は「八的ヶ原」(やまとがはら)(後に「八松ヶ原(やつまつがはら)」)と呼ばれていました。古代より平坦な砂地で、鎌倉時代に弓の練習場として八つの的が置かれたことに由来します。

また、現在はマンションの一角にひっそりとある熊の森権現は、畠山重忠が塔を奉納下と伝えられています。塔の右側には、「柴松のくずのしげみに妻こめてとなみが原に牡鹿鳴くなり」という西行の歌詞が刻まれており、この句は、西行が1186(文治二年)、東大寺再建のための勧進行脚の際にここにあった根上がりの松に腰かけて詠んだものとされています。

 

「平家物語」「源平盛衰記」 など舞台にもなったこの地は、その後、 足利尊氏の軍勢が北条時行軍を破った「辻堂・片瀬原の合戦」の地にもなるのです。

参考

貴志 正造 訳注『全訳吾妻鏡』(新人物往来社 1976)

 

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