ついに登場!承久の乱で三浦義村と兄弟対決を繰り広げる三浦胤義(岸田タツヤ)の生涯【鎌倉殿の13人】:2ページ目
鎌倉へ叛旗を翻し、打倒義時に奮闘する(承久の乱)
やがて胤義は鎌倉を離れて京都で大番役を務めたのち、検非違使(判官)に任じられます。人々からは九郎判官(くろうほうがん)などとも呼ばれたとか。何だか、かつての源義経(演:菅田将暉)みたいですね。
『承久記』によると胤義は、後鳥羽上皇(演:尾上松也)の側近である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)の説得によって鎌倉へ叛旗を翻したと言います。
その動機は正室である一品房昌寛(いっぽんぼう しょうかん)の娘が前の夫・源頼家(演:金子大地)を時政に殺され、彼女の産んだ禅暁(ぜんぎょう。頼家の四男)も承久2年(1220年)4月14日に義時の命により殺されたため。
「今や鎌倉に源氏の君なく、執権の北条一族が政を牛耳るのみ。今こそ逆賊を討ち滅ぼし、天下をあるべき姿に戻そうではないか!」
「おう。逆臣北条、討たいでか!」
話が決まったなら善は急げ。さっそく胤義・秀康らは京都守護であった大江親広(おおえの ちかひろ。大江広元の子)と伊賀光季(いが みつすえ。義時の義兄弟)にも味方するよう打診しました。
「上皇陛下にお味方せよ!」
それぞれ呼びつけて起請文を書かせようとしたところ、うっかり参上してしまった親広は、畏れ多くも上皇陛下に面と向かって「嫌です」とは言えず、泣く泣く味方してしまいます。
一方の光季はそもそも呼び出しに応じず「私は鎌倉殿(≒執権)の命で京都に来ているので、どんな気軽な御用であってもまずは鎌倉殿のご許可をいただいてから参上いたします」と遠回しながら拒絶したため、滅ぼされてしまったのでした。
秀康「さぁ、こうなったら後へは退けぬ。鎌倉の勢力を削ぐため、平六殿を味方につけるよう説得できるか?」
胤義「もちろんです。兄は『嗚呼の者』だから、次の鎌倉殿(日本国惣追捕使)にしてやると言えば、断るはずがありませんや」
この「嗚呼(おこ。烏滸)の者」とは、現代でも「烏滸がましい」なんて言うように、身の程知らずの愚か者≒野心家とでも訳したらいいんでしょうか。
つまり「今は義時にベッタリだけど、権力の座を約束すれば必ず寝返ってくれるでしょう」と言いたかったようです。
胤義「まして義時を討てと院宣を下せば、ヤツは朝敵。味方する者なんて一千騎もいないでしょうな。もう楽勝々々!」
秀康「それは頼もしい。はっはっは……」
……などと高をくくっていたのですが、残念ながら現実はそう甘くありません。義村はじめ坂東武者たちはこぞって義時たちに味方し、胤義らは奮闘むなしく敗れ去ってしまいます(その辺りはまた改めて)。