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平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる

平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる:3ページ目

平家の滅亡

一方、義経は1185年2月、屋島の戦いにて平家の拠点を奇襲により攻略、義経軍に追われた平家軍は範頼軍により九州への退路を遮断され、やむなく壇ノ浦に面した長門国彦島へ撤退します。

平家軍は彦島に追い詰められましたが、それでもいまだに強力な水軍500艘余りを有していました。義経はそれに対抗するために摂津国の渡辺水軍や伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など約840艘を味方に付け進軍します。

そして、3月24日正午頃、東から壇ノ浦へ攻め入る源氏水軍に対し、平知盛率いる平氏水軍は彦島を出て迎え撃ち、壇ノ浦の戦いが始まりました。

追い詰められた平家にとっては、壇ノ浦の戦いは一族の存亡をかけた最後の戦いでした。しかし、頼朝の目的は関東の武士の自立であり、平家との戦いに勝利し降伏させることを考えていました。朝廷の中でも、安徳天皇と三種の神器の引き渡しによる平家との和平交渉を進める動きがあったのです。

しかし、義経が降伏の隙も与えぬまま一気に平家を攻め滅ぼしてしまったため、平家側が持ち出した三種の神器と安徳天皇を取り戻すことができず、頼朝は目的を果たすことができませんでした。

戦いの後、頼朝・義経兄弟の不和は決定的となりますが、梶原景時の讒言もさることながら、頼朝の意に反して平家を滅ぼしてしまった義経の独断横行が不和の原因の一つになったのではないかとも考えられるのです。

 

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