平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる:2ページ目
叛逆の狼煙と平家の敗走
そんな以仁王の元に接近したのが摂津源氏の源頼政でした。以仁王は頼政を通じて諸国の源氏や有力寺院に対して平氏追討の令旨を下しますが、準備が整う前に計画が平家側に露見してしまいます。挙兵は失敗に終わり、源頼政は自害に追い込まれ、以仁王も命を落としてしまいます。
しかし、以仁王の令旨を受け関東では源頼朝が、北陸では木曽義仲が挙兵します。1180(治承4)年、頼朝は石橋山の戦いで平家軍の大庭景親と対戦しますが、兵力に劣る頼朝軍は敗北を喫します。
敗走中に平家方の梶原景時に命を救われ何とか安房国へ逃れた頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤を味方に付けると、これをきっかけに南関東の有力豪族を次々と従え関東を制圧し、相模国鎌倉を拠点として武家政権の整備に着手します。
この事態を重く見た清盛は孫の維盛を総大将とする遠征軍を東海道に派遣しますが、富士川の戦いで敗北、形勢が徐々に逆転していきます。
そのような中で1181(治承5)年に清盛が病死し、棟梁の座は三男の宗盛が引き継ぎますが、1183(寿永2)年の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲の軍勢に大敗、京へ進撃する義仲軍を防ぐことができず安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ落ち延びます。
その後、頼朝の命を受けた弟の範頼、義経が京へ進軍し義仲を滅亡させると、平家軍は一の谷で源氏軍を迎え撃ちますが義経の奇襲に遭い敗退、讃岐国屋島へと逃れます。
一ノ谷の戦いの後、頼朝は範頼に北条義時、三浦義澄、比企能員、和田義盛ら3万騎の軍勢を与え、山陽道を通って九州へ渡り平家軍の背後を封鎖するように命じます。
範頼軍は強力な水軍を持つ平家軍の抵抗に遭い関門海峡を渡ることができず、折からの飢饉により兵糧の確保にも苦心しますが、1185(元暦2/寿永4)年1月、平家に反抗する豊後国の緒方惟栄ら地方豪族を味方に付け九州へ渡ることに成功すると、翌月には葦屋浦の戦いで平家方の原田種直を撃破し、筑前国の太宰府を押さえます。