野心むき出し!女帝陛下の崩御に乗じて朝廷に謀叛した蝦夷の族長・宇漢迷公宇屈波宇:3ページ目
宇屈波宇の子孫たち
その後、宇屈波宇の一族は再び朝廷に臣従し、その漢字表記も宇漢迷から宇漢米に改められています。
「迷」うというネガティブな文字から之繞(しんにょう)をとり、天地の恵みである「米」へ。あるいは宇屈波宇の血迷った?行動に対して彼一代のみ迷の字が当てられたのでしょうか。
ともあれ、一族たちの記録を見てみましょう。
延暦11年(792年)11月3日、朝廷に帰服した夷俘の宇漢米公隠賀(おか)が上洛してもてなされ、蝦夷の第一等爵位を受けました。
※夷俘(いふ):朝廷に帰服した蝦夷のうち、垢抜け具合の浅い者。
※蝦夷の爵位は和人(特に中央貴族)のそれと別にされていました。
弘仁3年(812年)1月26日、夷外従五位上の宇漢米色男(しこのお)らに対して、新年祝いに参加するための入京許可が出されています。
※夷外(いげ):中央貴族の内位に対して地方豪族や庶民らが授かる外位(げい)のうち、蝦夷が授かる位階。
※蝦夷は入京に際して許可が必要だったんですね。治安維持の上で大切だったのかも知れませんが……。
承和2年(835年)6月27日、俘囚第二等の宇漢米何毛伊(かもい)が外従五位下に叙されました。
※俘囚(ふしゅう):先ほどの夷俘に対して、より垢抜け具合が進んだ者。
※外従五位下を授かった理由は「謀叛に加担しなかった」忠義とのこと。何かあったようです。
承和5年(838年)11月13日、戦功によって外従六位下の宇漢米毛志(もし)が五位下を授かりました。
※外との表記がありませんが、外従六位下からいきなり内位の(従)五位下を授かるとは考えにくいため、恐らくは外位の(従or正)五位下でしょう。
※それでも4階級特進(外従六位下⇒外従六位上⇒外正六位下⇒外正六位上⇒外従五位下)ですから、よほどの大手柄を立てたものと考えられます。
承和14年(847年)4月9日、近江国蒲生郡(滋賀県近江八幡市など)に移住していた外従八位下の宇漢米阿多奈麿(あたなまろ)らが、祖先の功績により外従五位下を授けられました。
※この「祖先の功績(お蔭)で昇進する」ことを蔭位(おんい)と言います。
かくして徐々に和人化が進んでいった宇漢米一族。古くから蝦夷と和人は交流を深め、やがて同じ日本人として朝廷(皇室)を奉戴する同胞として力を合わせていくのでした。
※参考文献:
- 坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、2010年11月
- 高橋崇『人物叢書 坂上田村麻呂 新装版』吉川弘文館、1986年6月
- 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房、2013年10月