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敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】

敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】

優れた歌人として勅撰和歌集にその名を残す

平忠度は、武将だけでなく歌人としても世に知られた存在でした。『新古今和歌集』の選者藤原定家の父藤原俊成[ふじわら の としなり]を和歌の師とし、歌人として類いまれな才能を評価されていたのです。

1183(寿永2)年7月の都落ちの際には、都が木曽義仲軍で充満する中、危険を冒して京都に戻り、俊成に自らが詠んだ百余首を託しています。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

これは後に『千載和歌集』の選者・俊成が、朝敵であった忠度の名を憚り、詠み人知らずとして掲載した「故郷の花」という一首です。

忠度の和歌は、それ以降の勅撰和歌集にも11首が選ばれています。

勇将でありながら、優れた歌人としての顔を持つ平忠度。俊成に和歌を託してから半年後にその生涯を閉じることになります。

<前編>はここまで。<後編>は、一ノ谷の戦いにおける平忠度の最期についてお話ししましょう。

 

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