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平安時代、ケガレを恐れて”我が子の死”さえ見届けられなかった藤原行成の悲しみ

平安時代、ケガレを恐れて”我が子の死”さえ見届けられなかった藤原行成の悲しみ

亡妻の妹と再婚するも……

悲しみにくれる行成は翌長保5年(1003年)に亡き妻の妹と再婚。ちょっと早すぎな気がしますが、先妻の喪には服さなかったのでしょうか。

寛弘4年(1007年)に四女(藤原長家室)を授かったものの、寛仁5年(1021年)に15歳で夭折してしまいます。

また寛弘5年(1008年)の9月25日~26日にかけて双子の男児を授かりますが、こちらは9月27~28日に相次いで亡くなり、亡骸を鴨川に流しました。

ちょうど同じ月に藤原道長(みちなが)の娘で一条天皇(いちじょうてんのう。第66代)に嫁いだ藤原彰子(しょうし)が敦成親王(あつひらしんのう。第68代・後一条天皇)を出産。

未来の天皇陛下を授かった道長の喜びを尻目に、そうとうショックを受けていたことは、行成の日記『権記』から察せられます(この月はほとんど記録がありません)。

終わりに

以上、藤原行成が我が子を喪ったエピソードを紹介してきました。

時々「昔の人は生まれ変わりを信じていたから、誰かが死んでもあまり悲しまなかった」という見解があるようですが、肉親の死が悲しいのは古今東西みな同じ。

それでもなお末期に寄り添うことを躊躇わせた穢れの観念は、今も日本人の精神に深く根づいているようです。

※参考文献:

  • 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
 

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