【鎌倉殿の13人】ハニートラップ失敗!渡邉梨香子が演じる常(つね)、史実のモデルは誰?:2ページ目
史実では下河辺政義に嫁いだ?
常が里(郷御前)と姉妹であると仮定すれば、常に相当する女性は下河辺政義(しもこうべ まさよし)の妻である可能性が高いでしょう。以下、そういう前提で話を進めます。
父親は武蔵国の御家人・河越重頼(かわごえ しげより)、母親は河越尼(かわごえのあま。実名不詳)。彼女は比企尼(演:草笛光子)の次女なので、劇中で紹介される通り「比企尼の孫」ですね。
劇中の比企夫妻は「比企尼の身内」と言えば打ち解けてくれると思ったのでしょうが、一度もお世話になっていないであろう範頼&義経にはピンと来ない様子。
下河辺政義はかつて平将門(たいらの まさかど)を討伐した藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)の子孫で、小山朝政(演:中村敦)とは従兄弟の関係です。
治承4年(1180年)5月に京都で以仁王(演:木村昴)が挙兵した際、京都にいた父の下河辺行義(ゆきよし)と兄の下河辺行平(ゆきひら)が、伊豆に流されていた源頼朝(演:大泉洋)にその情報をいち早く伝えます。
そして8月に頼朝が挙兵するとこれに呼応、兵備を整えて11月の佐竹討伐に従軍しました。
寿永2年(1183年)2月には下野国で頼朝と対立していた志田義広(しだ よしひろ。叔父)を小山一族と共同で撃破(野木宮合戦)。後に残党の足利俊綱(あしかが としつな)が討たれた時は、面識があったため首実検に呼ばれています。
その後は兄の行平と共に頼朝の近臣として奉公し、元暦元年(1184年)に常陸国(現:茨城県)南部を所領として与えられました。
元暦2年(1185年)には平家討伐のため源範頼に従い、豊後国(現:大分県)まで遠征。みんなで力を合わせ、ついに平家を滅ぼします。
これで頼朝の大願成就、めでたしめでたし……と思っていたら、同年11月。源義経が頼朝に対して謀叛を起こすと、義経の舅であった河越重頼が改易(所領没収)の上で誅殺されてしまいました。
重頼は政義の舅でもあるため、政義本人は何もしていないのに、連帯責任で改易されてしまいます。
まったく理不尽極まりない……さぞや落胆したことでしょうが、それから2年後の文治3年(1187年)に頼朝の使者として活動再開。御家人に復帰できたようです。
一方で義経は文治5年(1189年)に平泉で郷御前と共に自害。姉妹の死に“常”は何を思ったでしょうか。
ともあれ御家人の列に復帰した政義は、文治6年(1190年)に頼朝の上洛へ随行。建久3年(1192年)には寺院の御堂を建立する際、畠山重忠(演:中川大志)らと共に巨大な梁棟(りょうとう。建物の梁)を曳いて怪力ぶりを見せつけています。
幕下渡御新造御堂之地。畠山次郎。佐貫四郎大夫。城四郎。工藤小次郎。下河邊四郎等引梁棟。其力已如力士數十人可盡筋力事等。各一時成功。觀者驚目。幕下感給。
※『吾妻鏡』建久3年(1192年)6月13日条
以降、政義は『吾妻鏡』からフェイドアウトしていきます。妻との間には野本時員(のもと ときかず)、益田行幹(ますだ ゆきもと)を授かり、それぞれ家を興して子孫は栄えていくのでした。