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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その2

【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その2

骨肉の争いの末、消えていく源氏一族

貞暁が仁和寺で仏道修行に励んでいる間、鎌倉では源氏一門が、骨肉の争いの末、次々と命を落としていきました。

先ずは、1193(建久4)年5月。頼朝の弟として幕府内で重きをなしていた源範頼[源義朝六男]が、謀反の疑いで失脚します。頼朝の兄弟の内、最も頼朝に忠実だった範頼が本当に謀反を計画したのかは不明のままです。

ただ、蘇我兄弟の仇討ち事件が起こった際、頼朝が討たれたとの誤報が届き、嘆き悲しむ政子に対し、範頼は慰めと励ましの言葉をかけます。

範頼:もし兄上が討たれたとしても、鎌倉にはこの範頼がおります。どうかご安心召されよ。

この言葉を政子は、鎌倉に帰還した頼朝に伝えたのです。

頼朝:範頼め。普段は大人しく振舞っていても、本心は余に代わる野望を抱いていたのか。

範頼は頼朝に対し叛意がないことを懸命に釈明しますが、伊豆に流罪になりました。そして、配流先の修善寺で誅殺されたとの説が有力です。

1199(建久10)年1月13日、貞暁の父初代鎌倉幕府将軍の源頼朝(享年52)がその生涯を閉じます。それに伴い、18歳の嫡男頼家が家督を相続し、第二代鎌倉殿(将軍就任は3年後)となりました。

幕府は若い将軍を補佐するために、北条時政・北条義時・梶原景時をはじめとする有力御家人による「十三人の合議制」を制定し、頼家が直接訴訟を裁断することを停止します。これに反発した頼家は、自分と比企宗員ら5人の若い近習たちのみに権力が集中する独裁体制を構築しました。

時政:どうも頼家公は従来の慣例を無視して、全てを独裁される傾向にあるようじゃ。ここは、頼朝公以来の我ら宿老が幕府を束ねればなるまい。

頼家:時政め。いくら母の父であろうが、この頼家をないがしろにするにもほどがある。母も母だ。まずは北条の力を削がねばならぬ。

1203(建仁3)年5月、頼朝の弟で唯一生き残っていた阿野全成(あのぜんじょう)[源義朝七男]が、頼家から謀反の罪を問われ常陸国に配流のうえ誅殺されました。この時、頼家は全成の妻で政子の妹である阿波局を捕えようとします。しかし、政子は断固としてこれを拒否したといいます。

しかし、乳母と正妻の一族である比企能員(ひきよしかず)とともに、源氏一族と北条氏に圧力を加えていく頼家の動向は、やがて頼家自身を破滅に追い込んでいくこととなるのです。

時政:能員め。頼家公に取り入り、幕政を仕切ろうとする魂胆は読めた。今こそ、その禍根を断つべき時だ。

3ページ目 頼家が病により危篤状態に、そして…

 

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