奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次:2ページ目
奥州藤原氏の繁栄と義経
当時の奥州藤原氏は、第三代当主・藤原秀衡のもとで最盛期を迎えていました。秀衡は中央政界での騒乱には関わらず、奥州の統治に専念。平泉を中心として、奥州の政治を束ねていました。
当時の平泉は人口10万人を抱え、京に次ぐ繁栄を誇った大都市でした。無量光院や毛越寺、中尊寺など大寺院が建設され、仏国土と称されるほど仏教文化が花開いた土地です。
奥州藤原氏は金や馬の生産によって豊かな財力を持ちながら、17万騎(誇張でしょうが)と称される強大な武士団を抱えていました。嘉応2(1170)年には、秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任します。
朝廷から昇殿が許される殿上人(五位以上)と認められると同時に、東北地方における自治権を認められていました。
そんな中、金売吉次が京から源義経を連れて奥州平泉に下向してきます。当時の義経は出家先の鞍馬寺から脱走した身であり、いわば平家から追われる身でした。
匿えば問題となるのは目に見えています。しかし秀衡は義経を引き取って養育。平家から存在を隠し続け、平泉に住ませる道を選びました。
奥州藤原氏と義経を結んだ金売吉次は実在した?
金売吉次は、いわば義経にとって命の恩人とも言うべき存在です。
軍記物に存在は確認されますが、実際の史料(歴史資料)である古文書や日記には記載がありません。
以下、軍記物語の記載を見ていきましょう。
・『平治物語』→「奥州の金商人吉次」
・『平家物語』→「三条の橘次(吉次)と云し金商人」
・『源平盛衰記』→「五条の橘次末春と云金商人」
・『義経記』→「三条の大福長者」「吉次信高」
以上のことから、軍記物語の話を総合すると「三条(あるいは五条)に居住する裕福な金商人であり、武士でもある」ことが浮かび上がります。
武士であり、金の商人でもあるというのはどういうことでしょう。一説によると、金売吉次は奥州藤原氏の政商であったとされています。
本当だとすれば、武士身分でありながら、商人としても活動したということに付合しますね。
平安時代や源平合戦の軍記物語ですから、フィクションも多分に含まれていると考えたくなりますね。
では金売吉次の存在は、伝説だけだったのでしょうか?
いいえ、ちゃんとモデルとなった人物がいたことが確認されています。それも当時の一級史料である『吾妻鏡』と『玉葉』にも記載がありました。