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源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その4】

源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その4】:3ページ目

「前九年の役」の後日談

源頼義・清原武則と安倍一族のその後

「前九年の役」は、源頼義率いる国府軍の勝利に終わりました。頼義は、藤原経清と安倍貞任らの首を掲げ、都に凱旋します。朝廷は頼義を正四位下伊予守に任じ、その労に応えました。義家も従五位下となり貴族の仲間入りを果たし、頼義を援けた清原武則は従五位上に進み、鎮守府将軍に任ぜられたのです。

ただ、やはり朝廷は「前九年の役」を頼義の私戦とみなしていたのでしょうか、頼義麾下の部将たちにはほとんど恩賞を与えませんでした。頼義は私財を投じてこれに当てたとされます。このことが頼義と麾下の部将たちを強く結びつけ、その後の源氏の勢力強化に繋がったと考えられます。

さらに後述する「後三年の役」の際も、朝廷は義家に恩賞を与えず、義家が父同様には配下の部将たちの恩賞を私財でまかないました。頼義の子孫頼朝が挙兵した時、多くの坂東武者が頼朝に味方した礎は、頼義・義家父子の時に築かれたのです。

一方、安倍氏は惣領の貞任が討死したものの、弟の宗任は死罪を逃れ九州に配流となりました。その子孫は脈々と続き、元首相の安倍晋三氏はその末裔とされます。

藤原経清の活躍がもたらしたもの

頼義により悲惨な死を遂げた藤原経清ですが、その存在と活躍は後の日本史に大きな影響を与えました。経清の妻・有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、厨川の柵落城の時、安倍一族と運命を共にせず、経清との子清衡を連れて落ち延びます。

彼女は敵方である清原武則の子武貞と再婚清衡は武貞の養子となりました。その後、清原氏の内紛に源義家が介入した「後三年の役」が起こると、義家は清衡を援けて戦います。義家は父頼義が憎しみのあまり、鋸引きで斬殺した経清の子に援助を惜しみませんでした。

「後三年の役」の後、清衡は父経清の藤原姓に戻り、奥州藤原氏の初代となります。そして、三代秀衡が源義経を援け、四代泰衡がそれを口実に頼朝に滅ぼされます。藤原氏と源氏は半世紀近くにわたり、因果応報としかいいようのない歴史を繰り広げるのです。

藤原経清は、歴史の教科書にも登場しません。でも、経清が安倍氏に味方して「前九年の役」で活躍しなければ奥州藤原氏は出現せず義経の活躍や頼朝の鎌倉幕府創設もなかったかもしれないのです。それほど、経清は後世に大きな影響力を与えたのです。

今回は4回にわたり藤原経清について述べてきました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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