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まさにリアル戦国無双!朝倉義景に仕えた戦国武将・真柄直隆の豪傑ぶり

まさにリアル戦国無双!朝倉義景に仕えた戦国武将・真柄直隆の豪傑ぶり:2ページ目

まさに戦国無双!姉川の合戦で決死の突撃

しかし肝心の義景には上洛の野心も実行力もなかったため、見限った義昭は織田信長(おだ のぶなが)の元へ去ってしまいます。

そして義昭を担いで上洛を果たした信長と衝突。一度は浅井長政(あざい ながまさ。信長の妹婿)の裏切りによって織田軍を撃退したものの、すぐに勢いを盛り返して再び姉川のほとり(現:滋賀県長浜市)に対峙しました。

時は元亀元年(1570年)6月28日、後世にいう姉川の合戦です。

ちなみに当時の織田・浅井陣営では「野村合戦」、朝倉陣営では「三田村合戦」とそれぞれ布陣した地名で呼んでおり、姉川とは徳川陣営の呼称になります。

朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍が激闘を繰り広げ、その様子は

火花ヲ散シ戦ケレハ、敵味方ノ分野ハ、伊勢ヲノ海士ノカヅキシテ、息ツギアヘヌ風情ナリ、
※『甫庵信長記』姉川合戦之事、元亀元年六月二十八日

【意訳】火花を散らす戦いに敵味方は入り乱れ、伊勢の海士(あま)が海に潜(かづ)いて息継ぎもできないほどの激しさである。

とのほどでした。しかし武運拙く朝倉勢は潰走、やがて浅井勢も崩れて敗北は明らか。

「かくなる上は、我が身を擲って時を稼ぎ、味方を少しでも逃して再起を期して頂こう」

勝敗は武門の常なれば、負けぶりこそが武士の華……死を覚悟した直隆は、ただ一騎で織田の大軍へ殴り込みをかけ、12段構えになっていた陣中を8段目までも突入しました。

その様子を『信長記』はこう書いています。

3ページ目 匂坂三兄弟との死闘に果てる

 

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