源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その2】:4ページ目
藤原経清と源頼義の関係
藤原経清に関しては、奈良興福寺の再建を記録した『造興福寺記』の五位以上の藤原氏の名を記した項に「経清六奥(陸奥)」との記述が残されています。このことから、経清は陸奥の在庁官人でありながら、従五位下の位階を持つ貴族であったことが証明されています。
しかし、頼義の弟頼清に従い陸奥国に赴任したことから、位階的には自分とほぼ変わらない従五位上の頼義から「源家累代の家臣」と卑下されていたことを苦々しく思っていたのかもしれません。
経清:当家は摂関家に連なる家柄(藤原北家)。かの将門を討った俵藤太(藤原秀郷)の末裔なるぞ。いかに頼義が皇統につながる血筋といえども、源氏など摂関家にとってはただの番犬。累代の家臣よばわりとは、おこがましいものだ。
一方、頼義も藤原北家で従五位下の位階をもつ経清を家臣とみなすことで、周囲にその権威を誇示していたのではないでしょうか。
いずれにせよ、藤原経清の離反によって、「前九年の役」は古代史上類をみない長期戦に突入していくことになるのです。
【その2】はここまで。【その3】では、「前九年の役」序盤における安倍貞任・藤原経清軍と源頼義率いる国府軍の戦いについてご紹介しましょう。