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源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その2】

源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その2】:3ページ目

藤原経清が頼義から離反した理由

安倍頼時の死去と経清の裏切り

「前九年の役」が再発したことで、源頼義は陸奥国国司に再任されます。そして、すぐに軍を発し安倍時頼と戦闘状態に入りました。しかし、頑強に抵抗する安倍軍との間で戦闘は一進一退に陥ります。

1057年5月、頼義はこの状況を打開するために、津軽の俘囚を味方に引き入れ、安倍頼時を挟み撃ちにする策に出ます。頼時は頼義側についた俘囚を説得するために津軽に出陣しますが、待ち伏せを受け、重傷を負ってしまいました。頼時は、支城の鳥海柵に逃れますが、ここで死亡してしまうのです。

頼時を葬った頼義は一気に安倍氏討伐に動くつもりだったのでしょう。しかし、ここで思いもよらぬ事態が生じました。有力幕僚である藤原経清が、一族郎党を率いて安倍軍に寝返ったのです。

この経緯については、経清とともに頼義の幕僚であった平永衡が戦場で煌びやかな甲冑を身に着けていたために、頼義軍の位置を安倍軍に伝えているという嫌疑をかけられ、頼義により処刑されたことがきっかけになったといわれています。

しかし、頼時の死去で形勢不利に傾いた安倍軍に身を投じるというのは、在庁官人としての経清の立場を考えれば理解できません。頼義の野望を快く思っていなかった経清は、頼義軍から離脱する機会をはかっていたのでしょう。

経清:頼義の欲深さにはうんざりだ。私欲のために安倍を滅ぼし、陸奥を再び戦乱に巻き込もうなど許しがたい。こうなれば、貞任とともに戦おう!必ずや頼義を陸奥から追い払ってみせる。

経清は、長らく在庁官人を務めてきた経験から、今回の戦いは「頼義の言いがかり」から起きたことで、朝廷はこれを頼義の私戦とみなす可能性があることを予測していたのかもしれません。

朝廷は、陸奥で戦乱が起こることを望んではいないはずです。ですから、頼義さえ陸奥から追ってしまえば、また平和が訪れると踏んでいたのでしょう。

頼時が死んでも、安倍氏には勇猛果敢で知られる貞任と戦上手な弟の宗任が健在でした。自分が彼らと力を合わせれば、頼義に勝つことができると判断した結果の離反であったと考えられます。

4ページ目 藤原経清と源頼義の関係

 

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