「鎌倉殿の13人」山本耕史が演じる三浦義村、実は初回放送時点ではまだ8歳の子供だった?:3ページ目
政敵らを次々と粛清、ついには将軍までも?
正治元年(1199年)、梶原景時(かじわらの かげとき)の変においては盟友の結城朝光(ゆうき ともみつ)を讒訴から守るべく景時を追い落としたのを皮切りに、元久2年(1205年)の畠山重忠(はたけやま しげただ)の乱ではかつて祖父の三浦義明(よしあき)を討った重忠ら畠山一族に復讐を果たすなど、鎌倉幕府の命運を左右するキーパーソンとなっていきます。
そして建暦3年(1213年)の和田合戦においては三浦一族の長老となっていた和田義盛(わだ よしもり)を裏切って義時に与したことから
「三浦の犬は友を喰らう(三浦犬は友を食らふなり)」
※『古今著聞集』巻十五「闘争」より
などと謗りを受けることもあったそうです。
また建保7年(1219年)に3第将軍・源実朝(さねとも)が甥の公暁(くぎょう。実朝の兄・源頼家の子)によって暗殺されると、味方するふりをしてこれを討ち取りました。
しかし実は義時と実朝の暗殺を共謀していた(公暁を仕向けた後に粛清した)とか、あるいは義時もろとも一緒に討とうとしていたなど諸説あり、義時とは盟友でありながらも油断のならない関係であったことが窺われます。
鎌倉から源氏将軍が断絶すると、いよいよ朝廷との対立が深まり、「鎌倉殿の13人」ではクライマックスとなろう承久の乱(承久3・1221年)の幕開けです。
※承久の乱について:
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックス!承久の乱はなぜ起きたのか?
ここで義村は京都で検非違使を務めていた弟の三浦胤義(たねよし。平九郎)から朝廷に味方するよう誘いを受けるもこれを一蹴。鎌倉幕府の勝利に貢献し、北条氏に次ぐ地位を磐石のものとします。
元仁元年(1224年)に大任を果たした義時が世を去ると、子の北条泰時(やすとき)と北条政村(まさむら)が後継者の座を争い、当初は烏帽子子(※)である政村を推していたものの、政子の説得に応じて泰時に推し変。
(※)えぼしご。元服に際して成人の証である烏帽子をかぶせた子で、かぶせた者は烏帽子親(えぼしおや)となり、両者は時に血縁以上の関係とされました。
その決断によって泰時が家督を継承して第3代執権となり、鎌倉幕府の行く末を大きく左右したのでした(ちなみに政村もその後、第7代執権となっています)。
幕府の宿老として最期まで影響力し続けた義村は延応元年(1239年)12月5日に世を去ります。
『吾妻鏡』によれば「頓死、大中風」との事で、現代的に言えば脳卒中の後遺症(中風。大は重症の意)によって急死したようです。
盟友であった義時の弟・北条時房(ときふさ)も翌月に亡くなったため、承久の乱で敗れ去った後鳥羽上皇(ごとばじょうこう。第82代)の怨霊に祟り殺されたのではないかと噂されたのでした(『平戸記』)。
終わりに
以上、北条義時の盟友となる三浦義村の生涯を辿って来ましたが、実に「梟雄」の名に相応しいダーティかつ得体の知れないキャラクターですね。
政敵たちを次々と粛清し、幕府の執権として権力の頂点に立った義時にとって、欠かせない存在であった一方で、いつ寝首を掻かれるか判らない諸刃の剣。
単純に懐刀とは言い切れない緊張感をもちながら、数十年にわたる関係を保ち続けた義時の器量は、並大抵のものではなかったようです。
まだ始まったばかりの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。これからも山本耕史さんの演技に目が離せませんね!
※参考文献:
- 高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年6月
- 高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年4月
- 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月