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最後は子孫が大出世!室町幕府の基礎を築いた細川家の命脈

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家督争いで衰退、しかし……!

頼之には子供がいなかったため、頼之の弟である頼元が家を継ぎ、官位として「右京大夫」を授けられています。

これ以降、細川家の嫡流は「京兆家(けいちょうけ)」と呼ばれるようになりました。

その後、最盛期には畿内や四国で八か所の守護を兼ねるなど、細川氏は権勢を誇ります。さらに、細川勝元と山名宗全の権力争いが発端となった「応仁の乱」以降は、幕府そのものを支配することになります。

この頃になると、実質的には「細川政権」です。細川晴元、細川高国をはじめとする細川氏の人間が管領のポジションを独占し、時の将軍までも自分の都合ですげ替えるなど、やりたい放題です。

こうなってくると幕府の長たる将軍も傀儡です。しかしそれも長くは続かず、その後は家督相続争いをきっかけに、家臣である三好氏から当主を立てられて「下剋上」を起こされてしまいます。

そういえば、応仁の乱が起きた原因も家督争いです。この時代、権力者たちが家督争いで揉め事を起こしたり対立したりして、全体的な権勢の衰退につながっていくというのは一つの典型的なパターンだったのかも知れませんね。

こうしてその後は衰退の一途をたどった細川氏ですが、それでもしぶとく命脈を保ち続けます。

まずは本流である細川昭元が、かの織田信長の姉婿となっています。また、細川藤孝をルーツとする分家も豊臣秀吉に気に入られていますし、さらに細川忠興は徳川家康とのつながりで肥後一国の大名になっています。

特に、肥後の細川氏は明治維新までその権威を保っており、末裔である細川護熙氏は総理大臣にまで登り詰めました。

この細川内閣は、政治史の中で見れば正直あまりパッとしない印象ではあります。しかしこうして歴史を振り返ってみると、何かの拍子にいつ権力の中枢に躍り出てもおかしくないような「血」がもともとあったんだなと考えさせられます。

参考資料
ジャンクワードドットコム

 

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