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「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ

「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ

日本の歴史において、「やまと」の表記が「大和」に統一されたのは757(天平宝字元)年頃と考えられており、同年発布された「養老律令」が「大和」表記の普及に大きな影響を果たしたと考えられています。

さて、日本列島で勢力を拡大していたヤマト政権は、自分たちのアイデンティティを「ヤマト」と認識していたと考えられていますが、その一方、中国大陸や朝鮮半島では「倭国」と呼んでいました。

4世紀初頭から5世紀初頭にかけて、東晋から梁に至る中国の歴代王朝に朝貢したとされる「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)は、自らを「倭国王」と称していましたが、「倭」という漢字には“属国”という意味があり、ヤマトの人々にとっても「倭」という字を好ましく思っていなかったようです。

その証拠のひとつとして、607(推古15)年、厩戸皇子(聖徳太子)が、倭の五王以来実に120年ぶりくらいに中国大陸に使者を送り、隋を通して大陸との国交を再開させますが、その国書には「倭」という言葉を用いず、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言が記されていました。

ヤマト政権が使うこととなる「日本」という新しい国号については、中国側の記録『旧唐書』「東夷伝」に、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」と説明されています。

ヤマト政権の権力者達は、中国や朝鮮の使う「倭国」という呼び方から、自ら定めた「日本」という新しい国号を示しました。それは、単に国の表記を変更したことだけではなく、政治体制の整った国家としての「アイデンティティ」を確立したという意味合いもあったわけです。

参考

石原 道博『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝(2)』(1986 岩波文庫)

 

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