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名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】

名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】:3ページ目

血筋と器量ゆえの悲劇的な最期

1541(天文10)年、斎藤道三は、土岐頼芸とその子頼次を尾張に追放、事実上美濃国主となりました。

同年、斎藤正義は、久々利城の久々利頼興と講和し、頼興は正義の配下に組み込まれます。

美濃を追われた土岐頼芸は、尾張の織田信秀(信長の父)を頼りました。この流れに乗じた信秀は、1547(天文16)年9月に、26000人におよぶ大軍で道三の居城稲葉山城を攻めます。

しかし、巧みな戦術を駆使する道三に翻弄され、5000人の兵を失うという壊滅的な打撃を受け、撤退しました。その翌年、道三の娘帰蝶が信秀の嫡男信長に嫁すことで、道三と信秀は和睦を結びます。

時を同じくして、斎藤大納言正義の身に悲劇が訪れました。1548(天文17)年2月、久々利頼興の招きで久々利城に赴いた正義が、酒宴の最中に暗殺されたのです。弱冠33歳、異色の戦国武将はその波乱に富んだ人生を終えたのでした。

正義を暗殺した頼興は、すぐさま正義の居城鳥越城を堕とします。しかし、道三は頼興に対し報復行動を起こしませんでした。配下の方面司令官が殺害されたのに、まるで見て見ぬふりをしているかのような態度であったのです。こうしたことから、正義の暗殺は道三の意向によって行われた可能性が高いと考えられています。

本格的な美濃統一に奔り始めた道三にとって正義は、武将としての器量と高貴な血筋から、恐るべき存在になったのでしょうか。いまだ抵抗を続ける美濃国人衆が、正義を主として道三と対立することを危惧したということは、容易に想像ができるからです。

斎藤大納言正義の死後、道三と敵対していた美濃国人衆は、次々と滅ぼされていきます。そして、1552(天文21)年、道三による美濃平定が成し遂げられたのです。

2回にわたりお読みいただき、ありがとうございました。

 

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