名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】:2ページ目
道三のもと、東濃方面の司令官として活躍
初陣から5年後の1537(天文6)年、正義は鳥峰城(後の兼山城・金山城)を築城しました。これは、斎藤道三が尾張侵攻のために正義に命じ、正義は近隣14人の諸将の協力を得て、城の普請を行ったとされます。道三は、正義を一族衆として、さらに東農方面の司令官としての地位を与えていたようです。
城が完成すると正義は大納言を名乗るようになります。おそらくは、この頃、正義は斎藤持是院家の名跡を継ぐとともに、その支配地(岐阜県八百津町・金山町)を引き継いだのではないでしょうか。こうしたことも関係して、持是院家の斎藤利親(妙親)の官位・大納言を得たともいえるでしょう。
鳥峰城主となった正義は道三が見込んだ通りの活躍を見せます。特に、久々利城(岐阜県可児市)を本拠として、道三に頑強に抵抗していた久々利悪五郎頼興(土岐三河守)と戦い局地戦に勝利、道三から派遣された与力達に感状を与えています。
この時期は、まさに道三の美濃統一過程と一致し、正義が道三軍の方面司令官として大いに活躍し、その国盗り事業に貢献したと考えて問題ないでしょう。
ただ、気になるのは、道三の主人として守護土岐頼芸が健在していたことです。名門意識が高い頼芸からすると、素性の知れない道三と近衛家の出である正義とでは、見方が異なったのでしょうか。功臣である道三も新参者である正義も同等に見ていた可能性が高いのです。
このあたりに、道三の美濃統一の後に正義の立場が危うくなる要因があったのかもしれません。