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名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

美濃斎藤持是院家(みのさいとうじぜいんけ)縁故説

美濃守護代斎藤氏の重臣で室町幕府奉行衆を務めた斎藤妙椿(みょうちん)を祖とする美濃斎藤持是院家を継いだのではという説です。

斎藤妙椿は、美濃守護代斎藤宗円の子で、幼少時から僧としての修業を積んだ上で、戦国武将としても活躍。美濃守護土岐氏を凌駕する実力を美濃国内に轟かせた人物でした。

妙椿は、武力だけでなく、文化人としても知られ、官位も主君土岐氏の従五位下を遙かに超える従三位権大僧都に登り、孫の利親(妙親・持是院家3代)は大納言を称しました。

しかし、明応5(1496)年に、土一揆の蜂起で利親(妙親)が父妙純(持是院家2代)とともに討死、持是院家は衰退します。そのため、正義がその家柄の高さから斎藤持是院家を継ぎ、大納言の官位を得たのではと推測されています。

正義も僧として妙春(みょうしゅん)を名乗っており、持是院家が帰依した浄土宗の浄音寺を建立しています。このことから、法華宗に帰依していた道三との関連性が疑われるのです。

さらに、斎藤利親(妙親)と何らかの血縁的な関係があったのではないかという説も唱えられています。

このように、正義が戦国武将となった経緯ははっきりせず、正義と道三の関係も確かなことはわかりません。

しかしながら、正義は道三方、あるいは道三の援助により、戦国武将として美濃国内で活躍していたことは事実です。

【前編】はここまで。

【後編】は、いよいよ斎藤大納言正義の戦国武将としての生涯を紹介しましょう。

 

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