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名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

なぜ斎藤正義は武将になったのか

斎藤正義は、1516(永正13)年、関白近衛植家の子として生まれ、幼名を多幸丸と名付けられました。弟には、嫡子として近衛家を継いだ高名な近衛前久がいます。

正義の母は身分が低かったため、近衛家を継ぐことができず、庶子として扱われたわけです。そして、13歳の時、比叡山横川恵心院で出家させられてしまいました。

普通ならそのまま僧として一生を終えたわけですが、多幸丸は僧としての修業を積みながらも、武芸の習得にも励んでいたとのこと。当時、比叡山にはたくさんの僧兵がいて、戦国大名並みの武力をもっていたので、武芸の稽古には事欠かなかったのでしょう。そして、16歳の時、還俗して元服し、義正を名乗りました。

これが義正の戦国武将としてのスタートラインとなるのですが、そのきっかけには2つの説があるのです。

斎藤道三の養子説

正義が比叡山に送られた時、美濃国可児郡瀬田村の出身といわれる近衛家家臣瀬田左京が付けられています。

左京の姉は容姿に優れていたため、斎藤道三に見出され愛妾となっていました。その縁もあり、左京の仲介で道三の養子になったという説です。

当時の道三の立場は、まだまだ美濃国統一にほど遠く、守護土岐頼芸の一配下として、多くの敵と戦っていました。

そんな道三にとって、美濃の国人たちを服従させるためには、庶子とはいえども、正義の持つ近衛家という高貴な血筋は大きな魅力であったのです。

3ページ目 美濃斎藤持是院家(みのさいとうじぜいんけ)縁故説

 

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