大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する大司法家! ボアソナード草案の審査委員も務め、近代司法の確立に尽力した、初代大審院長・玉乃世履の生涯:4ページ目
初代大審院長となる
5月、世履は三等判事を拝命。さらに同月には二等判事となり、同時に大審院長事務取扱(代理)となりました。
いわば事実上の最高裁判所長官の地位にあったわけです。
人事の裏には、長州閥の領袖・木戸孝允の存在がありました。
木戸は山田顕義への手紙で世履を引き上げるように要請しています。いずれは世履に大審院長を任せるつもりでいました。
実力は勿論ですが、世履は長州閥を背景に順調な出世を遂げていきます。
世履は裁判官として、より公的な場で活動していきました。
明治11(1878)年5月、東京で内務卿・大久保利通が石川県士族らに暗殺(紀尾井坂の変)。世履は裁判長として犯人らの裁きに関わります。
大久保は政府を主導する、当時の最高権力者でした。
裁判を取り仕切るのは、やはり裁判官として名実兼ね備えた世履以外にいなかったものと推察されます。
9月には、世履は正式に初代大審院長を拝命。日本の裁判所の最高位に立つこととなりました。
大審院から元老院へ
明治12(1879)年、世履は司法省の次官である司法大輔を拝命。このときだけ大審院を離れています。
さらに世履は元老院議官も兼任していました。
元老院は当時の日本の立法機関です。
議官は同機関の議員として、華族や官吏などから勅命で任命されていました。任官経験者には、土佐出身の後藤象二郎や長州出身の井上馨もいます。
いわば世履は、法律を作成する立場に転じたことになります。
しかし司法の場は、世履の能力を必要としていました。
明治14(1881)年には、世履は第三代の大審院長を拝命。再び裁判所の頂点に立つこととなりました。
福島事件での判決
明治15(1882)年、福島事件が勃発。福島県令・三島通庸に公儀した自由党員の県会議長・河野広中らが逮捕されています。
福島事件は大審院の審判に付され、世履が担当することとなりました。
福島県令の三島通庸は、薩摩藩出身の人物でした。
三島は藩閥出身に加えて、政府部内で河野らを厳罰に処すべく画策。当然、重い処分が下るかと誰もが思っていました。
しかし世履は、裁判長として公正な裁きを揺るがせません。
被告人らに弁論の時間を十分に与え、検事からの傍聴禁止要求を退けるなどしています。
明治16(1883)年、世履は河野弘中に判決として軽禁獄七年、他の者に同六年を言い渡しました。