大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する大司法家! ボアソナード草案の審査委員も務め、近代司法の確立に尽力した、初代大審院長・玉乃世履の生涯:2ページ目
新政府の裁判官
慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政奉還を行います。
江戸幕府は消滅しましたが、いまだ慶喜は将軍職にあり旧幕府軍は隠然たる力を持っていました。
さらに新政府へ徳川家参加を求める勢力もいたため、いまだ水面下で勢力争いが続いていたのです。
12月9日、小御所会議が開催。王政復古の大号令が発布され、新政府樹立と将軍職の廃止が決定されます。
同日、世履は日新隊を率いて上洛。来るべき決戦に備えていました。
年が明けて慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが開戦。世履も新政府軍の一員として戦いに参加しています。
ここから戊辰戦争が始まりますが、世履は同月には国許の岩国に帰郷しています。
同年7月、世履は岩国藩を代表する立場とし公儀人(在外代表者)を拝命。京都に赴任して新政府との折衝に当たりました。
以降、世履は新政府の中でもポストを獲得していきます。
明治2(1869)年1月、最初に会津若松の民政担当を担当。2月には、新政府の会計官判事試補に任命されています。
同年5月には民部官判事試補、民部官聴訟司知事(民事の裁判官)に転じて、裁判官としての道を歩み始めました。
7月には聴訟権正となり、民部少丞を拝命。民部省のナンバー5という立場となります。
渋沢栄一との出会い
政府内においては、さまざまな出会いを経験しています。
明治3(1870)年、明治政府はフランス人の生糸技術者・ブリューナに富岡製糸場の立地選定を行わせています。
このときの政府側の責任者は、いずれも錚々たる面々でした。
民部省では世履とともに佐賀の大木喬任や旧幕臣の杉浦譲(愛蔵)が、大蔵省からは渋沢栄一が選ばれています。
世履は渋沢らとともに製糸場建設などをめぐってブリューナらと折衝することになりました。
以降、世履は渋沢と親交を結んでいます。
実際に尾高惇忠(初代富岡製糸場長。渋沢の義兄)は、世履の繋がりでのちに民部省に出仕しています。
渋沢栄一と先物取引を巡って激論を交わす
世履は政府内部において、様々な活動をしていました。
明治4(1871)年7月、明治政府は廃藩置県を断行。藩は消滅し、全国には県が置かれています。
同年11月には司法権大判事を拝命。このとき、渋沢栄一と政府内を二分する激論を繰り広げています。
当時、世履は先物取引の禁止を主張していました。
「空米取引であるから法律で禁止しなければならない」と言うのです。しかし渋沢は「商業であるから禁止すべきでない」と譲りません。
結局二人とも折れず、議論は平行線を辿りました。
しかし世履は柔軟性も持ち合わせていました。
のちにフランス人法律家・ボアソナードから間違いを指摘され、渋沢に謝罪しています。
過ちは認める、という素直さは世履の優れた人格をのぞかせます。