大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する大司法家! ボアソナード草案の審査委員も務め、近代司法の確立に尽力した、初代大審院長・玉乃世履の生涯:5ページ目
心身を病んで休職する
明治18(1885)年、世履は大審院を休職。熱海で転地療養をすることにしています。
吉岡達生氏によると、世履はうつ病を罹患していたようです。さらに持病の糖尿病も重なっていました。
うつ病発症の原因は、吉岡氏によると大審院長の職務における過労のようです。
世履は民事や刑事で難件を数多く担当。しかも自由民権運動などでは、明治政府の圧力をかわして公正な判断を下すという難しい対応を迫られました。
さらには、旧岩国藩からの批判に晒された可能性もあるようです。
旧藩主筋・吉川経健は男爵の爵位を獲得。しかし長州の他の支藩の旧藩主たちよりも下の爵位でした。
思う通りの結果が得られず、世履に批判が集中したという説です。
そういった苦悩とは裏腹に、同年10月には自身が正四位に叙任。思い悩む日々が増えていったようです。
愛刀で命を絶つ
明治19(1886)年8月7日、世履は従三位に叙せられています。
三位以上は公卿と呼ばれる身分です。
かつての律令制の時代ともなれば、国家運営の中心に据えられるほどの高位でした。
有名無実になったとはいえ、世履の働きが大きく評価されていたことは確かです。
しかし翌8日、世履は自宅二階で愛刀・備前祐定に伏す形で、自らの首を突いて自刃しました。享年六十二。墓所は谷中霊園にあります。
大審院長在職中の自殺でした。
自殺の原因は諸説あってはっきりしていません。
確かなことは、世履が近代国家の司法整備を行い、高い能力と責任感を持って臨んでいたということです。
参考文献
- ・吉岡達生 『初代大審院長 玉乃世履ー年譜ー』 冨永書店 2002年
- ・飯田喜信 「玉乃世履と山田顕義ー初代の大審院長と司法大臣ー」
- ・渋沢栄一 「玉乃渋沢と議論して下らず」 デジタル版『実験論語処世談(64)』
- ・長谷川ヨシテル 「河上彦斎〜幕末の兵学者・佐久間象山を暗殺した男〜」 ベストタイムズHP