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人の真価は死に様にこそ…明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った英雄たちの最期【上編】

人の真価は死に様にこそ…明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った英雄たちの最期【上編】:2ページ目

あらうれし、いつか誠の……越智彦四郎の最期

福岡から脱出し、鹿児島を目指して豊前(現:大分県)、日向(現:宮崎県)と逃避行のすえ4月5日に捕縛された越智は福岡へ護送され、明治10年(1877年)5月1日、除族のうえ斬刑に処せられました。

武士(士族)を斬刑に処するのは都合が悪いため、あらかじめ士族から除いた(身分を剥奪した)上で斬首することを言います。

越智の斬首を担当した(させられた)のは、元秋月藩士で越智の同志であった篠原藤三郎(しのはら とうざぶろう)。

昔から家族ぐるみで助け合うほどの間柄でしたが、篠原が政府の密偵であると言う噂を信じた越智から絶縁されてしまいます。

一方の篠原は、越智と叛乱を共謀しているとの容疑で拘留され、いざ越智らが挙兵すると、釈放される代わりに鎮圧の最前線で戦わされました。

そしていざ越智の斬刑が決まると、当局は篠原に斬首を担当させます。もちろん拒否権などありません。実に悪趣味ですね。

「……久しぶりだな」

「あぁ。ところで……」

いよいよ斬首執行という段に及んで、越智は篠原に言いました。

「かねがね疑問に思っておったんだが、人が斬首された際、斬られた首はすぐに息絶えるのか、それとも少しは生きているのか……」

「さぁ、どうだろうか」

この期に及んで、何てことを思いつくのか……平素であれば苦笑したでしょうが、今そんな余裕はありません。

「まぁ、やってみれば判るさ……さぁ、斬れ!」

「うむ」

果たして一刀の下に斬り落とされた越智の首級は……何と目玉をひん剥き、大きく舌を出したと言います。

(アカンベェする手がつながってなくて残念だ)

普段から大仰に剽げた言行で衆目を集めた越智は、その最期まで一風変わったものでした。

咲かて散る 花のためしに ならふ身は
いつか誠の 実を結ふらむ

【意訳】咲き誇ることなく散ってしまう花のような一生だったが、大義のために生きた誠の心は、後世必ず結実するだろう

あらうれし 心の月の 雲はれて
死出の山路も 踏みまよふまし

【意訳】あら、嬉しい。月にかかっていた雲が晴れたから、冥土への道のりを迷わず行けるだろう

(なすべきことを成したのだから、もうこの世への未練はない)

いずれも越智の辞世ですが、「あらうれし」とおどけてみせる一面と、「いつか誠の実を結ふ」ことを希(こいねが)うひたむきな思いを併せ持った彼らしさがよく表れていますね。

さて、斬首の任を果たした篠原には賞与金10円(現代の価値で約40万円)が与えられ、これを使って越智の墓に石灯籠を建立、一首の和歌を刻みます。

散る花と 知れと嵐の なかりせは
春の盛りを 友とゆくらん

【意訳】たとえ散る運命であっても、無情な嵐が吹き荒れなければ、春のよき日を君と楽しめただろうに……

永年の友と和解することなく、その手で斬らねばならなくなった篠原の心中が偲ばれます。

一方、武部は別ルートで官憲の捜査網を掻い潜り、鹿児島まであと一歩というところまできたのですが……。

【下編へ続く】

※参考文献:

  • 玄洋社社史編纂会『玄洋社社史』葦書房、1992年10月
  • 小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 第二部 愛国志士、決起ス』小学館、2015年12月
  • 田中健之 編著『「靖国」に祀られざる人々 「逆徒」と「棄民」の日本近代史』宝島社、2007年7月
  • 夢野久作『近世快人伝』葦書房、1995年2月
 

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