人の真価は死に様にこそ…明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った英雄たちの最期【上編】
昔から、人間の死にざまほど、その者の生き方を表すものはないと言います。
一生涯の締めくくりである人の死は、ただ死んで終わりではなく、その死に方しだいで後に続く者へと精神を受け継ぎ、その者と共に生き続けるのです。
今回は明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った二人の英雄、越智彦四郎(おち ひこしろう)と武部小四郎(たけべ こしろう)のエピソードを紹介したいと思います。
西南戦争に呼応、福岡の変に挙兵するも……
時は明治10年(1877年)3月27日、西郷隆盛(さいごう たかもり)率いる鹿児島士族(西南戦争)に呼応するべく福岡士族およそ500名が決起・挙兵しました。
越智・武部らは福岡城を攻略するべく郡役所や監獄を襲撃、大いに暴れ回ります。
しかし、すでに西郷軍は激戦地の田原坂(たばるざか)を攻略されて劣勢に転じつつあり、連携の見通しが立たなくなっていました。
それでも、これまでと相次ぐ士族叛乱(※)にも同調せず、ひたすら大西郷の決起に望みを賭け続けた彼らは、腐敗した藩閥政府を打倒する大義に殉ずるべく死地へと臨みます。
(※)佐賀の乱(明治7・1874年2~3月、江藤新平)、神風連の乱(明治9・1876年10月、敬神党)、秋月の乱(同年10~11月、秋月藩士)、萩の乱(同年10~12月、前原一誠)
……とは言え心意気だけで戦争に勝てるものではなく、福岡士族は明治政府軍の前に惨敗。徹底抗戦の末に軍を解散し、再起を図って落ち延びた越智と武部はそれぞれの末路を辿るのでした。
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