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遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題

遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題

理想の都だった藤原京?しかし長くは続かず…

天武天皇が、永続的な都の必要性を考えたのにはさまざまな理由がありました。

もともと、ヤマト王権がこれほどまでに都を転々と移したのは、政治的な思惑はもちろんですが、天皇が死んだ時のケガレ祓いや、宮殿や貴族の邸宅の耐用年数の短さゆえのことでした。

また道路網が整備されていなかったため、領地からの収穫を集めることが難しく、それなら天皇のほうが移動して集めていく方が効率的だったという見方もあります。実際、当時の都は簡単に移動できるほど小さいものでした。

しかし大化の改新以降、朝廷は律令国家として中央集権政治をめざしたことから、社会全体が複雑化していきます。官僚の人数が増え、既宅などの規模も大きくなっていきました。こうして、政治効率の点から、流動的でない都の築造が求められるようになったのです。

こうして造られたのが藤原京です。後の平城京や平安京と比べると小規模でしたが、初めて中国の都をモデルにして「条坊制」を本格的に取り入れた都城都市でした。

ヤマト政権では、政治改革を行おうとしても豪族たちが反対してなかなか実現できませんでした。それがやっと実現できたのが藤原京だったのです。

しかしこの藤原京も、首都としては十数年しか続きませんでした。

それには地理的・衛生的な問題などもありましたが、何よりも、最新の中国の都城と藤原京とがあまりにも違っていたという理由があったようです。意気込んで造ったのはいいものの、写真もない時代、ほとんど想像で建造したのだから当然です。

こうして710年、元明天皇は都を藤原京から平城京へ移しました。宮内の建物は解体され、藤原京に住居を構えていた貴族や役人も引っ越し。瓦や柱など、再利用できる建築部材は全て平城京に運ばれていきました。

現在、かつての藤原京があった場所はのどかな田園です。

藤原京が姿を消した後には、奈良時代には税として集めた稲を管理する役所が設置されたり、寺が建てられたりしたようです。平安時代になるとそこには荘園が置かれ、水田地帯となったのでした。

古代日本の「都」といえば平城京や平安京が有名です。しかしこうして見ると、実はそれ以前にも、歴代天皇たちによる「都づくり」が手探りで行われていたことが分かります。

もちろん今では、数年ごとに首都を移動させるなんて考えられない話です。見方を変えれば、古代の先人たちの試行錯誤があったからこそ、現在の東京という「都」も、その複雑な政治機構を安定的に維持することができているのでしょう。

参考資料

 

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