遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題:2ページ目
白村江の戦い、壬申の乱…そしてまた遷都
7世紀初頭は、何よりも朝鮮半島が激動していました。高句麗、新羅、百済の三つの国に分かれて、このうちの新羅が力をつけて百済を攻めます。新羅は、唐の協力を得て朝鮮半島を統一しようとしていました。
ここで日本は、百済に軍を派遣します。ところが有名な「白村江(はくすきのえ)の戦い」で大敗を喫し百済は滅亡。日本軍は、百済の難民とともに帰国しました。
しかし、敗れて撤退してそのままというわけにはいきません。今度は日本本土で、新羅と唐の連合軍の侵攻にそなえる必要があります。
そのための方策の一つとして、「遷都」が行われたのでした。瀬戸内海からの敵軍の侵攻に備えるため、中大兄皇子は飛鳥から遠い大津に遷都し、近江大津宮を設立したのです。ここで彼は天皇として即位し、さまざまな改革を進めていきました。
天智天皇の改革として有名なものに、日本で最初の律令法典である「近江令」の制定や、初の戸籍である「庚午年籍」の編成、水時計(漏刻)を用いた時報制度などが挙げられます。これらは全て、律令国家の基礎となる政策でした。
しかし671年11月2日、天智天皇は病のため志半ばで崩御。第一皇子である大友皇子が後を継ぎましたが、その後、大海人皇子が吉野、伊勢、美濃の豪族を率いて近江へと攻め込んだ壬申の乱で敗れて自害。大津宮は戦火の中で消滅しました。わずか5年と短命の都でした。
壬申の乱で勝った大海人皇子は天武天皇として即位し、また飛鳥へ都を戻しますが、しかし天武天皇自身はしばらく美濃にとどまり、9月になって岡本宮(飛鳥岡本宮)に移り住みました。これはかつての舒明天皇・斉明天皇の宮殿でした。
彼はさらに先のことを考えていました。天皇の代変わりごとに都を移す旧慣を廃止し、永続的な都を建設しようとしたのです。
こうして676年に構想されたのが後に「藤原京」として完成した都です。天武天皇はこの都の完成を見ることなく亡くなりましたが、持統天皇の手で690年から建設が進められ、日本で最初の本格的な都城といわれている藤原京が完成したのは4年後のことでした。
ちなみに天武天皇は、藤原京だけではなく複数の都を置くべきだと考えており、孝徳天皇が造った難波宮をそのまま受け継いだ難波京を置いています。