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武士の誠を見届けよ!幕末「神戸事件」の責任を一人で背負い切腹した滝善三郎のエピソード【上】

武士の誠を見届けよ!幕末「神戸事件」の責任を一人で背負い切腹した滝善三郎のエピソード【上】:3ページ目

無礼なフランス水兵を咎め、銃撃戦に発展

後世に言う「神戸事件」が起こったのは慶応4年(1868年)1月11日。

徳川幕府(※大政奉還しているため、厳密には旧幕府軍)を討伐する戊辰戦争(ぼしんせんそう)の勃発直後、新政府軍は敵方を牽制するべく、岡山藩に対して摂津国西宮(現:兵庫県西宮市)の警備を命じます。

さっそく岡山藩は兵2,000を進め、善三郎も源六郎と共に主君・日置帯刀の率いる大砲部隊に所属していました。

事件は岡山藩兵の隊列が神戸三宮神社(現:神戸市中央区)に差し掛かった時、2名のフランス水兵が前を横切ろうとしたことがキッカケで発生。

これは供割(ともわり)と言って非常に無礼な行為であり、武士たちとしては絶対に許しがたい暴挙と言えます。

「この、無礼者!下がれ、下がれ!」

「Rejeter!(どけ)Passer vite!(早く通せ)」

お互いに言葉が通じず、また一歩も譲らなかった(※)ことから口論はエスカレート、あまりの無礼に憤った善三郎は、手にしていた槍で水兵を突いてしまいます。

(※)読者の中には「岡山藩側も譲ればよかったのに」と思われる方もいるでしょうが、古今東西、軍隊というものは国家の威信≒存続を賭けた存在であり、それに対する侮りを容認するということが、国家や国民を危険に晒すことになってしまうのです。

(※)そもそも、いくら言葉が通じないとは言っても他国の明らかに武装した軍隊が行進している前を横切ろうとするのは、その国に対する侮辱であり、現代であっても逮捕・拘束されても文句の言えない事案となりかねません。

(これを大袈裟だと思うなら、試しにどこか外国へ遊びに行って、軍隊の一分隊でも行進している前をわざと横切ってご覧なさい。日本の自衛隊とは全然違った対応を見ることになるでしょう)

「Je vais tuer ce salaud!(この野郎、殺してやる)」

フランス水兵らは接収していた民家へ逃げ込んで拳銃を取り出したため、善三郎が「鉄砲!鉄砲!」と警戒を促したところ、これを「発砲(撃て)!」と勘違いした者たちが、上空に向かって威嚇射撃(※)を実施。

(※)威嚇射撃と見たか、殺意をもった危害射撃と見たかは、欧米人の証言者によって見解が異なります。

これが近くに公用で来ていた欧米諸国公使らに銃口を向けることになり、アメリカ海兵隊やイギリス警備隊などを巻き込んだ銃撃戦に発展してしまいます。

死者はなく、負傷者も数名ですんだのは不幸中の幸いでしたが、騒ぎがこれで済むはずはありませんでした。

【下編に続く……】

※参考文献:
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新 下』岩波文庫、2021年4月
A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新-リーズデイル卿回想録』講談社学術文庫、1998年10月
NHK編『NHK歴史への招待 第20巻 黒船襲来』日本放送出版協会、1989年5月
矢野恒男『維新外交秘録 神戸事件』フォーラム・A、2007年12月

 

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