武士の誠を見届けよ!幕末「神戸事件」の責任を一人で背負い切腹した滝善三郎のエピソード【上】:2ページ目
文武両道の秀才、仕事も家庭も順調だったが……
滝善三郎は江戸時代後期の天保8年(1837年)8月21日、岡山藩の砲術師範を務める滝助六郎正臣(すけろくろう まさおみ)の次男として津高郡金川村(現:岡山県岡山市)に生まれました。
幼くして父を亡くし、兄・滝源六郎(げんろくろう)や村の神官たちから教育を受け、一刀流剣術や萩野流砲術、槍術などを修めた一方、漢籍や国風(くにぶり。和歌をはじめ日本文化)にも嗜みの深い文武両道の士に成長します。
嘉永6年(1853年)に17歳で元服して正信(まさのぶ)と改名、岡山藩家老・日置帯刀(へき たてわき。忠尚)の小姓に取り立てられました。
「さっそくじゃが、上洛して広く世を見聞し、また修行を積んで参れ」
「ははあ」
かくして兄と共に京都へ上り、10年ほど文武の修行に励んだ善三郎でしたが、母の病気をキッカケに帰郷。尾瀬家より妻を迎え、長男の滝成太郎(しげたろう)と長女のいわを授かります。
「世継ぎも生まれて我が家も安泰。ますます忠勤に励まねばのぅ」
仕事は順調、家庭も円満。まさに幸せの絶頂にあった滝家を、幕末の風雲が吹き荒れようとしていたのでした。