モダンな洋装vsハイカラ和装!錦絵で見る明治時代のファッション改革:2ページ目
洋装は文明開化の証
散髪脱刀令の出された翌年、明治5(1872)年、太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)が出されます。これによって男性はヨーロッパの宮廷服にならった大礼服を着ることなどが定められました。
以後、警官・鉄道員・郵便夫等の制服、また教員の服装なども西洋化していきました。一般庶民の間にも洋装は少しずつ広まっていきますが、和装をベースにに一部だけ洋装を取り入れたスタイルも出てきます。
下の絵は久松町久松座の劇場を描いたものですが、洋装の男性・女性の他に、和装に洋傘を持ったり帽子を被った男性の姿も見られます。
一方、女性の洋装が一般化するのは遅れ、一般女性に洋装が広まったのは大正期に入ってからです。
男性の大礼服が定められたのは明治5(1872)年ですが、女性の大礼服はその14年後、明治19(1886)年に制定されます。宮廷のほか明治期に洋装をしていたのは主に上流階級で、一般市民の間ではまだまだ和服が着用されていました。
明治期の女性の様相で主だったものは、鹿鳴館の舞踏会でのドレスです。
こちらは鹿鳴館の舞踏会を描いた、楊洲周延の作品です。
当時ヨーロッパで流行していたバッスルスタイルが「鹿鳴館スタイル」として人気が出ました。
当時の錦絵には、バッスルスタイルのドレスを身に纏った、上流階級の女性たちの姿が見られます。バッスルとはカゴという意味で、スカートの後ろを膨らませるための腰当てです。