美しすぎる横顔…明治時代「社交界の華」として活躍した陸奥亮子の苦難と夫婦愛:2ページ目
離れ離れの日々
結婚の翌明治6年(1873年)には長女の清子(さやこ)も生まれ、幸せな家庭生活を送っていた亮子たちでしたが、明治11年(1878年)に宗光が逮捕されてしまいます。
容疑は政府転覆活動の共謀、明治10年(1877年)に西郷隆盛(さいごう たかもり)らが起こした西南戦争に加勢するべく活動していた土佐派の不平士族(林有造、大江卓ら)と密通していたことが発覚したのです。
「悔やむまいぞ……これも藩閥政府を打倒するため、西郷先生の義に応えぬ訳には行かなかったのだ……」
「あなた……!」
まったく、夫が夢追い人だと苦労させられるのは今も昔も変わりませんが、動揺する亮子を戒めたのが、姑の伊達政子(だて まさこ)。
「人は艱難に遭はなければ真の人間にはなれません。亮子も今度のこと(宗光の入獄)で能く心を研(みが)かねばなりません。あれが為めには今度が大の薬です」
ひとたび天下に志を立てたなら、一度や二度の入獄くらい、通過儀礼ではありませぬか……生粋の武家育ち、昔気質の政子は肝の据わり方が違っていました(※前年に亡くなった舅の伊達宗広も、生きていればそう言ったでしょう)。
「ま、あの子も一回り大きく成長してくるでしょうから、私たちはしっかりと家庭を守って帰りを待つとしましょう」
「はい、お義母様!」
やれやれ、今時の若い者ときたら、大した覚悟もなく成功だけを夢見るんだから……そんな老人たちのぼやきが聞こえて来そうですが、ともあれ亮子は政子と共に獄中の夫を支え続けたのでした。
ちなみに、宗光に下った判決は除族(じょぞく。士族の身分を剥奪)の上で禁錮5年のところ、特赦によって4年で出獄。亮子とやりとりした手紙の数々は、夫婦の深い愛情を現代に伝えています。
かくして明治15年(1882年)に出獄した宗光ですが、伊藤博文(いとう ひろぶみ)の勧めで明治16年(1883年)から明治19年(1886年)にかけてヨーロッパへ留学することになりました。
「西欧の実情を見れば、君も彼らに学ぶところ大と解るであろう」
帰って来たと思ったらまた出て行った……亮子の嘆息は察してあまりあるものの、これもまぁ成長の糧……快く送り出すのが妻の務めと心得て、健気に家庭を守り続けます。
この時もまた、夫婦でたくさんの手紙をやりとりしたことは言うまでもありません。