美しすぎる横顔…明治時代「社交界の華」として活躍した陸奥亮子の苦難と夫婦愛:3ページ目
社交界の華となるも……
さて、ヨーロッパ留学から宗光が帰国、政界に復帰すると、亮子夫婦は社交界デビューを果たします。
当時、伊藤博文や井上馨(いのうえ かおる)らは日本の欧米化を進めることが不平等条約を改正できる有効な手立てと考え、その一環として建設された鹿鳴館(ろくめいかん)に日本の紳士淑女を集めたのです。
「本当にこんな猿芝居で上手くいくのかはともかく……お召しとあれば、仕方ありませんね」
生来の美貌と才智、そして芸者時代に培った優美な物腰などによって外国人から好評を博し、「鹿鳴館の華」と謳われたのでした。
明治21年(1888年)には駐米公使となった宗光に同行してアメリカへ渡り、現地でも社交界の華として名声を得て、夫の外交政策(陸奥外交)を大いに支えたと言います。
しかし幸せは永く続かないもので、明治26年(1893年)には一人娘(※)の清子を喪い、明治30年(1897年)には夫・宗光と死に別れました。
(※)宗光の先妻・蓮子(れんこ。既に死没)が産んだ長男の陸奥廣吉(ひろきち)と次男の陸奥潤吉(じゅんきち)は健在。
宗光の死後、彼が祇園芸者ともうけていた金田冬子(かねだ ふゆこ)を引き取って養育。亮子の心中は複雑だったでしょうが、かつて自分が本妻(義母)から疎まれる辛さを知っていたからこそ、冬子を受け入れたのかも知れません。
そして亮子自身も明治33年(1900年)8月15日に病死、45歳の生涯に幕を下ろしました。冬子は廣吉の養女として引き取られますが、明治37年(1904年)に亡くなります。
終わりに
その美貌で人気を博し、陸奥宗光の志を支え続けた亮子の生涯をたどってきました。
苦しい時代を乗り越えて、日米社交界の華となった亮子ですが、こうして見ていると、華々しげな後半生よりも、苦しい前半生の方が幸せだったようにも感じられます。
「人は艱難に遭はなければ真の人間にはなれません。亮子も今度のこと(宗光の入獄)で能く心を研(みが)かねばなりません……」
姑・伊達政子の言葉どおり、苦難の中でも志を捨てず活躍した宗光を支え続けることによって、亮子の心映えもより美しく磨かれたのかも知れません。
※参考文献:
岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』PHP文庫、2003年3月
佐々木雄一『陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯』中公新書、2018年10月
新聞集成明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史. 第十一卷』林泉社、1940年8月