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あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは?

あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは?

/ 人物
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2021/08/01

「三井御用所」の責任者に

利左衛門は生来、大変人好きな性格で、機転もよく効き、行商時代に培ったネットワークを利用して、三井家に様々な情報をもたらすと、その功績が評価され大番頭に抜擢されました。現代風に置き換えると、大企業にアルバイトで入った者が成績を挙げ、重役に就任するくらいの大出世と言えるでしょう。

利左衛門のバイタリティーと鋭い機転は、苦しい流浪の日々を送った頃に養われたのではないかと考えられます。明日の自分がどのようになっているのか定かではないギリギリの状況の中で生き抜いてきたことで、利左衛門のセンスが磨かれていったのだと思われます。

当時の三井家は幕府との強いパイプがあり、それ故に幕府御用金を献金しなければならず、その額は150万両にも上りました。そこで、三井家は勘定奉行・小栗上野介忠順との伝手があり、かつ機転の利く三野村利左衛門を減免交渉役とすると、交渉の末、御用金を当初の1/3程度の50万両まで減額させることに成功します。

この交渉の背景には、幕府が大店から御用金を搾取することで弱らせるより、育成させることで幕府財政の支えとする思惑があったものだと考えられます。この功績により、三野村利左衛門は幕府御用金の一切を取り仕切る「三井御用所」の責任者となりました。

そして、慶應4年(1868)、小栗上野介忠順が罷免されるのを見た利左衛門は時代の機運を察し、幕府から新政府へ方向転換するよう、三井家に働きかけました。

「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言【上】

いつの時代も憂国慨世(※1)の士はいるものですが、そういう人物に対して水を差す者も少なくありません。「しょせん君一人が何をしようがすまいが、結局この世はなるようにしかならないよ」「そん…

もし、ここで三井家が別の選択をしていたら、後の三井グループはどのようになっていたか定かではありません。

利左衛門が大局を見ることにおいて非凡なものを持っていたことが、結果、日本に大きな財産を生むことになったのは言うまでもないでしょう。

3ページ目 時代の転換期が生んだ偉人・三野村利左衛門

 

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