あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは?:3ページ目
時は明治に移り、三野村利左衛門は「銀行」という、これまでの日本にはなかった大事業に尽力します。明治新政府の金融政策を支えていた三井組は利左衛門の指揮のもと、三井組独自で運営する銀行の設立を目指します。
小野組との合資による第一国立銀行の設立を経て、後に小野組が倒産したのを機に、利左衛門は三井組による「三井銀行」設立を達成させます。
この三井銀行が誕生する背景は、第一国立銀行が発足した直後、世界的な金融高騰のあおりを受け、兌換要求が殺到。まだ日本の銀行が発行する「紙幣」という紙に信用がなかったのでしょう。これに銀行側は対処することができず、小野組は力尽き倒産します。
逆に、利左衛門はこれをチャンスと見ると、政府に働きかけ急場を凌ぐと、第一国立銀行の実質的な支配者となりました。しかし、この時の大蔵省官僚であった渋沢栄一は、合同出資としての銀行を目指していたため、「銀行は三井の銀行にあらず」と激怒したと言います。
ちなみに、「バンク」を「銀行」と訳するにあたって、三野村利左衛門と渋沢栄一との間で議論がなされました。文字はひらがなしか読めなかった利左衛門は、バンクを訳すのに、アメリカの銀行条例の翻訳作業をしていた渋沢栄一に相談したと言います。江戸時代までバンクと似た業務を行う職業として両替商がありましたが、バンクの扱う業務は他に兌換紙幣の発行、為替の取り扱い、債権や出資の引き受け、預金まで幅広く対応していました。
そこで、アメリカの銀行法を勉強していた渋沢栄一は「バンク」を意味する適切な言葉として、中国の古典を元に、「外国との交易を行う会社」を意味する「洋行」から「行」の字のみを取り、それに「金」を加え「金行」ではどうかと提案しました。
これはバンクが扱う兌換紙幣は紙と金を交換するものであることが根拠となっていますが、利左衛門は紙幣で交換できるのは金だけでなく銀も交換できると指摘したところ、渋沢は悩んだあげく「銀行」という造語を作ったと言います。
利左衛門の功績は銀行創設に始まり、呉服業の分離、三井物産の創設、明治政府への資金援助等、多岐にわたる活躍をしましたが、明治10年(1877)、三井銀行開業式典に出席することなく、この世を去ります。
元は浪人であった者がその才覚と人柄でのし上がり、後の三井財閥の礎を築くための功労者となったのは、まさに幕末明治維新という時代の転換期が生んだ偉人であることを表しているのではないでしょうか。