国のためなら反逆の罪も覚悟!江戸時代の三大お家騒動「黒田騒動」をご紹介:2ページ目
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幕府の判断と栗山大膳のその後
栗山大膳の訴えにより、忠之や大膳以下の多くの重臣は江戸にて裁判を受けることになりました。これは、寛永9年(1632年)から寛永10年(1633年)の出来事です。
裁判の結果、忠之は「不行跡」により一旦領地を召し上げられます。しかし、父・長政の過去の戦における功績が認められ、新たに領地をもらい、この騒動は終わりを迎えることとなります。
こうして藩取り潰しを免れ、忠之はその後、島原の乱や長崎警護の任務で活躍しました。対する大膳は、「主君を直訴した罪」によって盛岡藩預かりの身となりました。
しかし、盛岡でも罪人扱いされることはなく、その後62歳で生涯を閉じました。彼のお墓は岩手県盛岡市の「恩流寺」にあります。
いかがでしたか?
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