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戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】:2ページ目

立本寺にある島左近の墓

 

立本寺はとても由緒ある寺院。日蓮宗一致派の本山で、日蓮の弟子・日像の戧建した妙顕寺を起源とします。お寺の伝承など大変興味深いものがたくさんありますので、いつかご紹介したいと思います。

そんな、立本寺の境外墓地にあるのが、島左近の墓です

その墓石には「妙法院殿嶋左近源友之大神儀 寛永九壬申年六月二六日歿」と明記され、台座には土葬と記されています。

伝承によれば、関ケ原の戦場を逃れた島左近は、立本寺の塔頭・教法院の寺男として住みつき、32年後に没したそうです。

 

 

石田家重臣であり、戦国武将としても名の知れ渡った島左近は、東軍からすればいうまでもなくお尋ね者でした。はたしてそんな左近が東軍の追っ手をかわし、京都で生き永らえることができたのでしょうか。

しかしながら、関ケ原の後、宇喜多秀家、増田長盛、織田秀信などの有力な西軍大名たちが死罪を逃れ蟄居を命じられていることを踏まえて考えると、石田三成の陪臣であった左近にはさほどの追求は及ばなかったとも考えられます。

また、その潜伏先として江戸時代初期、日本で最大の人口を有していた京都(1600年の人口:京都約30万人・大坂約28万人・江戸約6万人)を選んだことで、かえって身を隠すのに好都合であったのではないでしょうか。

立本寺にある島左近の墓が本物であるかどうかは、正直分かりません。でも、稀代の勇将・島左近が生き延びて、この地で天寿を全うしたと伝わること、その墓を現代の我々がこうして拝することができるというのは、文字通りの歴史ロマンなのではないでしょうか。

 

この記事をお読みの皆さんも、京都に行かれたら是非とも西陣に足を運び、立本寺の島左近の墓に参詣し、隠れた歴史を肌で感じていただければ思います。

 

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