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幕末のハイライト・池田屋事件!新選組が討幕派の志士たちを斬ったその真相とは

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桂小五郎が池田屋事件の現場にいた!? 「逃げた」真相と対馬藩邸

池田屋事件の時には長州や肥後、土佐などから多くの志士たちが集まっていました。

長州藩の京都留守居役・桂小五郎(後の木戸孝允)がいたという説があります。

桂は後に維新三傑(他に西郷隆盛と大久保利通)の一人に数えられるほどの人物でした。

当時は長州藩の尊王攘夷派の重鎮として京都で活動しており、この時も池田屋の面々と会っていたと伝わります。

通説では以下の通りです。

桂は一度池田屋に到着したものの、早すぎたために対馬藩邸に入って友人の大島友之允と懇談。そこで池田屋事件の報に接し、池田屋に駆けつけようとしたというものです。

しかしこれは、他の人物の手記とは食い違っていることがわかりました。

長州藩の京都留守居役・乃美織江の手記では、桂は池田屋事件の現場にいたとされています。

さらに手記では桂はこのとき、屋根を伝って対馬藩邸に逃げたとされました。

しかしこれには誤報であるという説もあります。

当時の乃美は京都留守居役でありながら、桂が池田屋で死んだという誤報で藩を混乱させています。

さらにその後、桂が対馬藩邸に逃げた話を藩に報告して桂を苦しい立場に追いやりっています。

これが誤報でないとしても、整合性が取れます。

最初の死んだ話が桂を匿うための撹乱としても有効な手段でした。次の逃げた話は、生存をアピールするための話とすれば筋が通ります。

仮に桂が池田屋事件の現場から逃げたとして、自身でそれを認めるとは考えにくいものがあります。

ただでさえ桂は「逃げの小五郎」の名前で呼ばれていました。逃亡時には乞食になりすまし、会津藩兵に囚われた時も逃げおおせています。

そういったことが、池田屋事件で逃げたと言われる説を補強している可能性もあります。

 

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