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幕末のハイライト・池田屋事件!新選組が討幕派の志士たちを斬ったその真相とは

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池田屋事件の名シーン・階段落ちは存在しなかった!?  北添佶摩の最期の真相に迫る

古高奪還のため、尊攘派の志士たちは京都市中のどこかで会合を開くことを予測しました。

そこで近藤隊10名と土方隊24名(さらに二手に分かれた)に分け、夜の京都を片っ端から探索します。

近藤隊は池田屋方面、土方隊は四国屋方面に展開。決して集合場所が一つと特定されたわけではなかったようです。

近藤隊が池田屋に到着したところ、ここに尊王攘夷派の志士たちが滞在していました。およそ亥の刻(午後22時)とされています。

このとき、近藤は池田屋の屋内に踏み込みます。二階へ続く階段の上には、土佐浪士の北添佶摩がいました。

近藤は凄まじい勢いで階段を駆け上がります。近藤は北添を抜き打ちざまに斬りました。

北添は応戦する間もなく、そのまま階段を転がり落ちます。これによって池田屋事件が幕開け、というのが映画やドラマでよく見られてます。

これは子母澤寛の『新選組始末記』や映画・『蒲田行進曲』などでも採用されています。しかしこれは事実ではありません。

北添は池田屋事件の中で自刃して最期を遂げています。

沖田総司は池田屋事件で吐血していない? 倒れた真相は熱中症にあった!?

最初に池田屋に踏み込んだのは、近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助らだったといいます。

近藤は二階に上って襖を開けました。そこの一室には、暗闇の中で浪士たちが抜刀した状態で待ち構えていました。人数にして20数名です。

通常なら臆するところ、近藤は果敢に叫びました。

「御用検めでござる。手向かい致せば容赦なく斬り捨てる!」

そこへ浪士の一人が斬りかかります。瞬間、沖田総司が踊り出てその浪士を一刀で斬り伏せました。

そこからは新選組と浪士の乱闘が始まります。

このとき、戦闘中の沖田に異変が起こりました。突如として喀血して倒れた、と子母澤寛の『新選組始末記』には書かれています。

沖田は持病の労咳肺結核)を発作に襲われ、池田屋の戦闘からは離脱したと言われていました。

しかしこれは正しくはありません。近藤勇の書簡や新選隊士・島田魁の『島田魁日記』には、沖田の離脱については記述されていないのです。

永倉新八の『新選組顛末記』には、沖田が池田屋で昏倒したことが書かれています。しかしここには喀血の文字は見られません。

昏倒した理由は、肺結核ではなく熱中症である可能性も指摘されています。

当時は初夏にあたる6月でした。池田屋での戦闘は高温状態で行われたと予想され、そこに多人数がいたことは確実です。

戦闘中に熱中症等の体調不良があったとしても、何ら不思議ではない状況でした。

最終的に沖田総司は肺結核で亡くなります。しかしこの段階において、肺結核に罹患していたとは断定できません。

幕府御典医・松本良順の記録からの可能性では慶応21866)年、小島鹿之助の『両雄実録』では慶応31867)年に罹患したとされています。

池田屋事件のときは、いわば沖田は最前線に配置された形でした。少なくとも近藤勇や土方歳三が肺結核の疑いを持ってはいなかったのは事実のようです。

3ページ目 桂小五郎が池田屋事件の現場にいた!?

 

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