大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一を世に送り出した父・渋沢市郎右衛門の生涯:2ページ目
尊皇攘夷の血気に逸る栄一らを諭す
さて、天保11年(1840年)には待望の男児・渋沢栄一が生まれ、家業を継がせようと厳しく教育したそうですが、真綿が水を吸い込むような成長を喜ぶ一方で、困ったことも起こります。
「異人どもめ……神聖なる日本の国土を踏みにじる横暴、もはや我慢がならぬ!」
「事なかれ主義の弱腰な徳川幕府には任せておけぬ!今こそ我らの手で攘夷を決行し、天子様(天皇陛下)の御心を安んじて差し上げよう!」
「おう、やらいでか!」
嘉永6年(1853年)の黒船来航よりこの方、ジワジワと開国が進んで外国人が各地を横行。しばしば傍若無人な振る舞いに及んでトラブルを惹き起こしており、これに憤る者たちが尊皇攘夷(そんのうじょうい)を声高に叫び始めたのです。
尊皇とは「天皇陛下=皇室をたっとぶ」こと、攘夷とは「夷(ゑびす。野蛮人≒国を乱す者)を攘(うちはら)う」ことを言い、外国人の横行が「皇室をたっとぶため、国を乱す野蛮人を打ち払って天皇陛下の御心を安んじる」尊皇攘夷の意識を急速に高めたと言えます。
日本の文化を否定し、同胞に乱暴することは、すなわち日本の象徴である皇室に対する侮辱であり、日本人であれば誰もが怒り心頭な案件ですが、いかんせん志士たちの主張や行動は過激でした。
「かくなる上は、横浜へ殴り込んで外国人居留地を焼き討ちしてくりょうぞ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
文久3年(1863年)、年ごろになった栄一は分家「新屋敷(しんやしき)」の渋沢喜作(きさく。栄一の従兄)や、同じく従兄の尾高新五郎(おだか しんごろう、惇忠)らと共に攘夷運動を計画します。
「やめんか!いっときの怒りに任せて個々に暴れたところで、世の趨勢は変わらん。来るべき時が来れば、皆で力を合わせて世直しも叶うゆえ、今は自重して、力を蓄えるんじゃ!」
結局、この横浜焼き討ち計画は中止されたのですが、このままでは収まらぬ栄一は、喜作らと共に攘夷運動が活発な京都へ行くことにしました。