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前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】

慶喜が開陽丸で側近に語ったこと

 

 

慶喜が開陽丸乗船中に、松平容保と交わした会話がある。主命とはいえ、藩士たちを見捨てて江戸に戻る容保には、忸怩たる思いが纏わりついていたのだろう。やや責めるような口調で、

去る5日、内府様は勇ましい演説を行い、我が軍の士気は大いに盛り上がりました。

お言葉の通り、内府様が出陣されれば、数日の敗戦を覆すことができたはずです。

それなのに、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。(『会津戊辰戦史』)

この問いに対し、慶喜は平然と言ってのけた

あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。(『会津戊辰戦史』)

慶喜は、はっきりと「皆が奮い立たないから」と述べている。

では、あの大演説を行った、まさにその時、慶喜は本気で戦うつもりだったのか。

そして、開陽丸が無事に大坂湾を抜け、紀州沖に出た時、板倉伊賀守を艦長室に呼び寄せ、こう命令した。

江戸に戻ったら、自分は恭順謹慎して、朝廷の仰せの通りに従う決心をした。決して抗戦はしない。皆そのように心得て欲しい。(『昔夢会筆記』)

これには、温厚な板倉もさすがに顔色を変えて抗議した。

それはそうだろう。鳥羽・伏見で慶喜のために戦い、死んでいった将兵はもちろん、江戸で待っている幕臣たちに何も言い訳ができない。それほど、慶喜の無責任さは際立っていたのだ。

しかし、慶喜は一切の聞く耳を持たなかったという。1月5日から数日間の慶喜の言動は、全く一貫性を欠いている。いや、不安定といった方がよいだろう。

 

腹心である板倉伊賀守にも、そして、ここまで労苦をともにしてきた松平容保にすら本心を打ち明けない。そんな慶喜の姿は、もうこの時点で、徳川崩壊を象徴していたのかもしれない。

 

【その3】に続く……

 

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