前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】:2ページ目
東帰のきっかけになった神保修理の進言
徳川慶喜はいつ江戸へ逃げる決意を固めたのか。そして、そのきっかけは何だったのか。それは、1月5日、あの大坂城大広間での大演説の後であったと推測される。
同日深夜、慶喜は松平容保の信任篤い神保修理長輝(ながてる)[会津藩軍事奉行添役]を呼び寄せて謁見した。善後策を問われた修理は、きっぱりと言い切る。
このような事態に至っては、もはやなすべき方法はございません。
内府様におかれましては、速やかに江戸にお帰りになり、落ち着いて善後の策をめぐらされるのがよろしいかと思われます。(『昔夢会筆記』)
修理の「速やかに江戸に戻り、善後策をめぐらされるのがよろしい」という言葉の意味は、様々に解釈されている。
その多くは、修理は恭順派であり、善後策というのは慶喜の恭順謹慎であるとされる。
事実、修理は会津藩内で裏切者との槍玉にあげられ、慶喜東帰から2ヶ月もしないうちに、江戸で自尽に追い込まれた。将来を嘱望されながらの僅か35年の人生だった。
しかし、修理の名誉のためにも明確に述べておかなければならないことがある。それは、1911年に『慶喜自身が語っている』ことだ。
神保の建言を聞いたのち、むしろその説を利用して江戸に帰り、
固く恭順謹慎しようと決心したが、それは心の中にしまい、
だれにも打ち明けなかった。(『昔夢会筆記』)
慶喜は、真摯に進言した修理の真意を理解していながら、「その説を利用」したのだ。
もちろん、「落ち着いて善後の策を」という修理の言葉には、「時勢の推移を見て」という意味が含まれていたのだろう。
しかし、その真意とは、恭順ではなく、あくまで江戸に帰り、戦線を立て直すことであったことに間違いないだろう。